「ジョーカーがピーターパン説」の派生:ニコがケイティ・モーリス説/穴にハマったアリスたち

 うむ(納得しながら)。

 しかし、今思い返すと第1話の完成度の凄まじさに戦慄しますね(第1話の感想)。

 僕も最初から『赤毛のアン』には触れていたけれども、『赤毛のアン』=アンがグリーンゲーブルズにやってくる所から物語が始まる(ダイアナとかと出会うのはこの後)、『スマイル』=みゆきさんが転校してくる所から物語が始まる(この後仲間たちと出会う)、で対応していて、かつ第1話の「曲がり角」のシーンはやっぱり有名な『赤毛のアン』のラストの「曲がり角」のくだり(色々と象徴的な意味があるのが有名)を踏まえた表現だったって感じですかね。
 みゆきさんはアンでウェンディでシンデレラなんですね。共通してるのは、メルヘン時間を否定もしないけれど、むしろ尊いものだけど、時がきたら厳しい現実に戻って頑張る、と。

 第1話クライマックスの、

「逃げてばっかりじゃ、ハッピーも逃げちゃう」

 とか、今聞くとより響きますね。

 厳しい現実は見ないことにして、逃避し続けてもよかろうに、とも思う所を、それは本当の幸せじゃないって叫ぶという(そしてその後気合で立ち向かう)。

 で、「永遠の怠惰なメルヘン」VS「時間限定のメルヘンを糧に現実に立ち向かう」、の対立項の他に、「物語を都合よく改変」VS「物語の尊重」、の軸も入ってる気がするので、こうやってアンやらピーターパンやらの元ネタを丁寧に尊重しつつ絡めてるスマイルという作品自体が、物語を尊重してる的だ、と。

 スイートから「共有体験」のテーマを継いでるフシがあるので、そうなるとやっぱり物語は尊重する感じなんですね。『赤毛のアン』の改変二次創作も否定はしないのかもだけど、二次創作では大きい母数で共有できる共有体験にはなれない。通時的、共時的に尊重された原典的『赤毛のアン』が、やっぱりこうして色々と分断されてる時代においても、人と人とを繋ぐ共通の話題になり得る訳で、実際我々もそれをキーにしてこうして語り合っている。ある程度文化圏が違う人たちとも、原典を双方知っていれば対話のトリガーにはなります。

 分断されていて孤独な現代人という問題意識にあたって、思い出のレコードに象徴される、昔一緒に聴いていた音楽、重ねて想起できる過去の共有体験、そういうのをキーにまた連帯できたなら、という話がスイートだったんですが、スイートからのバトンを共有体験級の古典物語という回答で返してるのは中々に素敵な感じです。

 大きい視点では通時的な共有体験という古典物語、小さい視点では、児童時間のメルヘンを共に過ごしたという物語、メタにはプリキュアという物語を観ていたという共有体験。

 やがて厳しい現実はやってくるのが暗示された以上、「ずっとみんな一緒」というみゆきさん達の願いは物理的には叶わない。緑川さんの家族も、ずっと一緒にはいられない。それはある意味当然なこと。

 なのだけど、通時的に共有されてる古典物語が、メルヘン時間を共に過ごした記憶が、家族で過ごした児童時間の記憶が、ある意味分断を補い続けてくれる。そういう意味で、バラバラであるというバッドエンドは乗り越え得る。各々が引きこもって改変物語に永遠に逃避した世界とは、やはり逆です。作品としてのプリキュアシリーズの方向性は前者、というような。そういう方向になり得る作品を目指してプリキュア作ってますよという作り手たちの熱意も熱い感じです。

 毎年この時期あたりですが、様々な軸が収斂していってる感じです。最終回近辺であろう12時近辺、およびそれらのテーマの凝縮版が一足先に描かれるであろう映画がたいへん楽しみです。