「虚無感」、「自身や世界の無価値感」をどうやって乗り越えていけるのか、というのが特に日本のゼロ年代以降の創作作品のテーマの一つだったと思います。豊かな国に住んでるはずなのに、フと絶望してしまったりで、統計的にも自殺率など高い。どうしよう、という。

 乗り越える試みは僕が把握してる範囲でもいくつかあって、


1.日常の輝きを自覚する。

 『けいおん!(!!)』など。有無を言わさず、今私達が生きてる日常も輝いてるんだという実感のもと、自己重要感や世界の重要感を回復して乗り越える。確かに、『けいおん!(!!)』観てると、ああ、やっぱり日常には意味があるよ、大切だよ、と思ってしまいます。


2.生の一回性を自覚する。

 『ひぐらしのなく頃に(解)』など。いわゆるゼロ年代のループもの作品。ループの中で色んな世界の可能性はあるのかもしれないのを見てきた後で、けれど、私達が生きてるこの人生、この自分が主人公の物語は一回きりなんだ、といわゆる真・ルートに到達して、この一回きりの生の意味を回復する、という。いくつものシミュラークル世界を回った後に、最後に「自分が主人公の物語」に到達する『仮面ライダーディケイド』とかも入れるならここという気がします。


3.目標にコミットして競争の中を突き進む。

 『バクマン。』など。24時間目標に向かってまい進するようなほどコミットできる目標を見つけて、ひたすら駆ける。その時間は、何となく生きてる普通の人とは違う、濃密な意味がある時間だ、といような感じのもの。ただこれは私見だけど、この「3」に関してはちょっと他に比して人によるかなと感じていたりです。これまた個人的な事情も含むけど、例えば介護をしながらだったり、自分が病気だったりな状況を不随しながら『バクマン。』はできないですよね。


4.他者から重要感を補填される。

 プリキュアシリーズはわりとこれだった気がします。どこかに自己重要感の欠落を抱えていた(主に両親が自分を置いて海外に行ってることに起因してるように描かれている)ほのかが、なぎさと出会って自己重要感を回復するような系譜。『プリキュア5GoGo!』に顕著な、シリーズを通した「誰かに会いに行くことの尊さ」も、虚無的で自己重要感が感じられなくなったとき、誰かが会いに来てくれるのはありがたい、とその点に根差していると思います。


 で、僕が『スマイルプリキュア!』を観て新たに感じたのは、5番目で、これは確かにな、と思ったのでした。あくまで僕の観てる範囲内の話ですけど、気づかせてくれた点で、やはりスマイルは最新の物語で新しい物語だったと思うのでした。で、その5番目は、


5.児童時間に信じられるものに出会う。

 ですね。ミラクルピースの回が顕著だったと思うのですけど、やよいさん本人は自己重要感が低いのです。だけど、幼い頃、児童時間に信じられるメルヘンに出会っていたので、そこから糧として自分が生み出したミラクルピースは、「信じられるもの」だった。だとしたら、ミラクルピースから糧をもらって現在の自分がいる以上、今の自分を否定したり、虚無的な気持ちで今の自分には価値がない、とか言ってしまったら、信じたミラクルピースまで否定してしまうことになる。だから、今の自分は自分もさることながら、ミラクルピースを否定しないために、頑張る。ミラクルピースに意味がある(信じられる)以上、今の自分自身が無意味なんて言わない理論。

 そういうわけで、児童時間に信じられるもの(それはメルヘンでもありという作品でした)に出会っていれば、「虚無感」、「自身や世界の無価値感」を乗り越えるための助けになる。だからそれは大切なものなので、自分自身はそこから卒業しても守ったり伝えていく側に回ろう。そういう帰結だったと思います。


 という感じで、1〜5まで全部使いこなしたりすれば、中々バカにできないと思うのですよね。「虚無感」、「自身や世界の無価値感」、そこから陥ってしまう絶望。これはこれで大問題なので、そういうことの対処に、物語(メルヘン)が一役買えるのだったら、それはやはり意味があることだと思うのです。

 と、特に震災以降の文脈で物語(メルヘン)に意味があるのか、そういう仕事をしている自分たちに意味があるのか、と誠実に問いかけながら作っていたと推察される制作陣のみなさんだと思うのですが、現時点での僕の考えは、「意味はある」かな、とここに僕本人も色々受け取ったスマイルが最終回を迎えたタイミングで書き記しておきます。

ゼロ年代のメルヘン時間から現在の私達へ贈る灯
ゼロ年代のメルヘン時間から現在の私達へ贈る灯