「だったら最初から書かなきゃ良かったのよ」(レジーナ)

 ドキドキ!プリキュア第43話「たいせつな人ヘ!亜久里の授業参観!」の感想です。
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 今回の見所ベスト1。


第1位:ラブリンク


 通時的(歴史的)、共時的の両面からリンクによるリソースの追加について描かれる。

 シリーズとしては『フレッシュプリキュア!』の映画『おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』の頃から描かれている、全ては「やがて忘れ去られてしまう」問題。どうせ終わる事象、それなのに何故に愛をそそぐのか。小さくは玩具への愛とその忘却についての話ですが、大きくは有限の時間を生きること全般についての哲学な話です。どうせ消える(死ぬ)、なのに何故愛がどうこうと、という。

 それでも愛を伝えてくれって桃園さんが言って劇場にミラクルライトがチカチカと輝き、せつなが「ラブ……」ってつぶやくシーンに繋がっていくのがあの映画の凄い所ですが(「ピーチ」じゃなくて「ラブ」って言うのね。「愛(ラブ)」の概念について、桃園さんから伝えられて「やり直せた」せつなが語る、の絵)、今作『ドキドキ!プリキュア』でも解法の基本は同じで、映画や前話から特に印象的に描かれるようになった「伝承される愛」。


 「だったら最初から書かなきゃ良かったのよ」(レジーナ)

 に対するアンサーは、

 「消えてしまっても、込められた愛が色褪せたりしません」(茉莉さん)


 映画のマナさんのお祖母ちゃんからの愛の伝承に次いでの、消えてもなくならないものがある、という話。そうやって過去からのリンクを伝って現在に、さらには未来にリソースを追加していけたなら、現実や未来に立ちはだかる過酷な現実も、何とかできるかも、という願い。

 一方、レジーナは小学校の生徒たちが描いた「みんなで手を繋ぐ」絵を一笑にふしながらも、自分もマナと手を繋いだ記憶を思い出してしまう。こっちは共時代的なリンク。一人の「幸せの王子」では解決できない問題も、リンクを繋いでリソースを追加していくことで、解決できたなら、という願い。

 「みんなで手を繋ぐ絵」が、あくまで小学生が描いたものになってる辺り、作り手も「子供が考えるような綺麗事的だけど」という意識は込めて描いてるのだろうな……。『スマイルプリキュア!』ラスト3でキュアピースが平和を口にして、バッドエンドピースに否定され、それでも頑張る、と応えるのと同じ。現実は、ジャネジーの収奪競争のごとく、綺麗事は収奪されて終わるのかもしれない。それでも、奪うことができないほどのリンクした愛があり得たなら、という願い。

 髪を下した亜久里とレジーナが似てることもあり、終盤の構図は『プリキュア5GoGo!』の、館長的閉じ込める「永遠」(レジーナは外界とリンクを切られてキングジコチュー様に閉じ込められていた。)VSフローラ様的、プリキュア的、変わり、伝承されていく「永遠」(亜久里にはお祖母ちゃんやマナさんたちとのリンクがある)を、それぞれレジーナと亜久里が象徴してる、プリキュアディケイド的対立にもなってる感じ。真琴さんの「歌が最後の武装」エピソードから、徐々にレジーナに愛が伝わってることもあり、『プリキュア5GoGo!』の館長には伝わらなかったものが、今作では伝わるかもしれないと、『ドキドキ!プリキュア』には歴代シリーズのバッドエンド要素を覆す構造があるんじゃないかという話としても面白い。

 次回は、劇中で描かれた「最初のリンク」、マナと六花、「幸せの王子とツバメ」の話っぽい。マナさんがいないシチェーションでの六花。シリーズのクリスマス話では、夢原さんの「私たちがサンタになる」話とかが好きですが、ツバメの物語にも期待なのでした。

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→映画を観てきた感想はこちら:『映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!』の感想へ(ネタバレ注意)

→前回:ドキドキ!プリキュア第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」感想へ
→次回:ドキドキ!プリキュア第44話「ジコチューの罠!マナのいないクリスマス!」の感想へ
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