「パパには私しかいないもの」(レジーナ)

 ドキドキ!プリキュア第44話「ジコチューの罠!マナのいないクリスマス!」の感想です。
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 今回の見所ベスト1。


第1位:空間越えしラブリンク


 物理的に離れていても愛のリンクは可能かというお話で、作品の主題的にとても大事だと感じられる回。これがOKなら、色々な問題は解決する!

 選ばれたのはクリスマス回も兼ねて、破格とも感じる六花さん回。第3話の六花さん回のアンサーになっていて、ドキドキ!の構成力には恐れ入るのであった……。第3話では、「離れていても親子の愛のリンクは繋がっている」という象徴だった「手紙」をマナさんが守り、今回は同じくマナさんと六花は離れていても愛のリンクは繋がっているのか、という点に関して、同じく「手紙(マナメモ)」に象徴させて描いてる構成になってるのですよね。


 「離れていても、離れはしない」(菱川六花)


 マナさんと六花の信頼関係熱いわー。『幸せの王子とツバメ』の比喩から行くと、近すぎて一緒に死んじゃったツバメ、というバッドエンドに対して、王子もツバメも離れて己の道を行くかもしれないけれど、そのリンクは途切れない! みたいなのを描いているという話です。「愛してる」の言葉をお互い物理的な距離が近い場所では伝えないのだけど、その愛はホンモノだ! みたいな。オスカー・ワイルド(童話『幸福の王子』の作者ね)がそもそもそういう類の愛を描いていたフシがありますが、この末世の恋愛資本主義世界のクリスマスに、ピュアだのう。良いのう。

 そして、映画では六花とありすが親の手を離すシーンがあるし、映画でマナさんはお祖母ちゃんとお別れしても、その愛を途切れさせぬまま未来に向かうし、ありすパパはありすが外へ出ていくのを尊重するし、茉莉さんは「消えてしまっても、込められた愛が色褪せたりしません」と亜久里を送り出す……というような点に関して、レジーナを閉じ込めていたり、現在もお互いに共依存状態的なキングジコチュー様とレジーナとの関係が、対照として描かれる。「この世に永遠の愛など存在しない。」の第42話冒頭のキングジコチュー様の台詞から、色々浮彫になってきてる感じで、つまりキングジコチュー様&レジーナの方は、時間的、空間的に途切れない伝承される「永遠の愛」のようなものに確証が持てないので、お互いを閉じた関係にしようとしている、と。一方で、マナさんサイドは時間的にも空間的にも離れていても繋がっている境地に達しているので、もう揺るがない、と。

 これ、ラストはキングジコチュー様とレジーナに、iPadを供給して、離れていても色々伝えられるようにすればいいんじゃないかな。わりと本当に、そういうテーマだからラブリーパッドはiPad型玩具なんだと思ってるし。で、随所随所に描かれてる食の共有シーンなんかも入れて、最後はiPadで連絡取り合って、一緒に鍋を食べてめでたしめでたし、と。

 別にアップルの回し者ではないのだけど、9年以上介護生活をしてきて、iPadはキングジコチュー様的「手のかかる親」を見捨てずに一緒に未来に行こうぜというノリ的に、大事なアイテムだと思ってます。「見守り」を遠距離でも可能にし、かつ見守り要因としてのリソースを追加する、というのが、現時点での短中期的な介護問題の解法だと思っているので。

 次回はそろそろ終盤で因縁の亜久里VSレジーナ。これ、この困難な問題にあたって、駆け抜ける幸せの王子! みたいな感じになるのかな。ラスト五話か……。楽しみだ。

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