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 という訳で、公開初日に観てきた『映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!(公式サイト:音注意)』の感想です。

 ネタバレを含んでおりますので、まだ観てない方はご注意下さい。
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 間違った方向のグローバル化が暴走している状況に、失われてしまったような「和」の価値観を取り戻して向かい合ってみる、という軸と。

 そんな越境が当たり前になってきている世界で、外からの来訪者を歓迎しているのに、身近な他者を排斥してしまったりしている、僕達人間のアンビバレント(矛盾)にどう折り合いを付けてゆくのか、という軸と。

 二つの軸がクライマックスで合流して、百花乱れ咲く感じに盛り上がるという、ノリの絢爛(けんらん)な映画でありました。


1.間違った方向のグローバル化が暴走している状況に、失われてしまったような「和」の価値観を取り戻して向かい合ってみる

 ガチで政治とか地政学の話を押してるというわけでは全然ないのですけど、本『魔法つかいプリキュア!』という作品は、プロデューサーとして無印『ふたりはプリキュア(感想)』〜『Yes!プリキュア5GoGo!(感想)』の頃の鷲尾天氏(通称「プリキュアのお父さん」)が本格的に関わっているということもあり、以前から氏がインタビューなどに応えている「グローバル化」にまつわる視点のもろもろが反映されている作品であろう、という話は、これまでの感想でも時折書いておりました。↓


参考:鷲尾天氏のエッセンス〜均質化に向かう世界で「見え方が変わる」を守るということ―魔法つかいプリキュア!第15話「ハチャメチャ大混乱!はーちゃん七変化!」の感想(ネタバレ注意)


 本映画のダークマターさんが持っていた「力」と、TVシリーズ本編前半クライマックスで焦点があたった「闇の魔法」が同じ意味合いとして描かれていて、これはまあ、暴走したグローバル資本主義の比喩なのだと思います。

 より強く、より速く、より大きく、進歩は良いことだと捉えてグローバル資本主義を進めていったはずなのに、いつしかそれ自体が目的化して、なんだか地域伝統文化とか共同体とか、破壊しまくってる。もはや、使っていた当の人間達が制御不能。本当の「願い」は「大事な人と一緒にいられること」だなんて、分かっていたはずなのに、なんだか消費喚起のためのプロモーションに乗って孤立化(一人世帯、核家族化の方が消費社会には都合が良い)してしまったり、物欲を優先してしまったりな世界さふぁっきん。幸せのために求めたはずの力が、幸せを奪っているという、この状況、なんなの、という。

 その暴走状態から、本映画のクマタさんは救われて、TVシリーズのクシィさんはそのままドクロクシー様として破滅してしまったのですが、クマタさんが救われたのは「友達」ができたから、主にはモフルンの存在のおかげ、という描き方をしていたと思います。

 逆に言うと、クシィさんが助からなかったという意味でバッドエンドに終わったTVシリーズ前半最終戦の方は。「一人で抱え込む」人と描写されていた校長先生は、クシィさんの本当の「友達」にはなれていなかった、ということでもありそうです。

 この辺りは、『ドキドキ!プリキュア(感想)』〜『ハピネスチャージプリキュア!(感想)』〜『Go!プリンセスプリキュア!(感想)』の「幸せの王子」モチーフ三部作からのテーマも継承されてる部分と感じますが、TVシリーズ前半戦クライマックスでは、校長先生はまだ「一人で抱え込む」バッドエンド「幸せの王子」だったのですね。

 それが、(主には)みらいさんのおかげでそこから抜け出せたので、校長先生、本映画とか、TVシリーズ後半では一人で抱え込まずに、ピンチの際にはすかさずみんなに助力(ミラクルモフルンライト使ってなど)を求めています。一人で魔法力を貯め込んでいた校長先生はもう昔の話です。頼むぜ、教頭先生、アイザック先生、リズ姉さん、生徒さん、魔法界のみなさんみなさん。

 TVシリーズ前半が、「バッドエンド幸せの王子」だったために、友人のクシィさんをグローバル資本主義の暴走から救えなかったのに対して、本映画ではモフルンは一人で抱え込まなかったので(みらいさんが会いにきたところ)、クマタさんの友達として機能して、クマタさんをグローバル資本主義の暴走から救い出すことができた、と。TVシリーズ後半も、この構成で「トゥルーエンド」へ抜けていくのが、一つは見所になりそうです。

 というわけで、この項目の処方箋は、「友達」と、「一人で抱え込まない」。


2.越境が当たり前になってきている世界で、外からの来訪者を歓迎しているのに、身近な他者を排斥してしまったりしている、僕達人間のアンビバレント(矛盾)にどう折り合いを付けてゆくのか

 こちらの話も、グローバル化で、とかく「境界」が「越境」されやすくなってる、という前提がまずあったりだと思うのですが。

 本映画、クマさんの里は、TVシリーズ本編で描かれていた「人魚の里」とかの地域(ローカル)伝統文化共同体の比喩のポジションかと思うのですが、外部から訪れたモフルンを歓迎する一方で、身近にいたクマタは排斥している……という一種の矛盾(アンビバレント)が描かれております。

 何故に、我々は外国人観光客のみなさんたくさん来てね、できれば移住してくれても良くてよとか言ってる反面で、身近にいる障害者や(ある属性の)異国人や卓越者を排斥しているのか? このアンビバレントをどうすればイイのか?

 そもそも論として、二項対立で考えるのが西欧合理論的で、矛盾をそのまま全体性として包摂するのが東洋的、仏教的、古来の日本的世界観なので、ここでも、西欧発グローバル資本主義の暴走に対する、「和」の価値観、という構図が見て取れたりします。

 で、その日本的、「和」的なこの矛盾(アンビバレント)の解決(というか包摂)方法なのですが、それが、これまでTVシリーズ『魔法つかいプリキュア!』でずっと描いてきた、「見え方」が変わるというギミック。および、そのギミックによって、「過去」の受け取り方を捉えなおし、未知なる「未来」は想定不能の最高のもの(=奇跡)を選びとろう、というテーマそのものなのですね。全てが繋がっていって、綺麗な作品でした。

 「見え方」が変わる(変えられる)というギミック、TVシリーズ本編では、クルクルッキーに変化するプリキュアさんのスタイル、七変化するはーちゃん、校長先生の姿など、視覚的に分かりやすいモチーフから、けっこう抽象的な各エピソードの軸にまで、繰り返し使われているメインギミックでありました。

 第一クールだと、リコさんから見たリズ姉さんの「見え方」が、「リコさんの競争相手としてのプレッシャーを感じる存在」から、「リコさんに無償の愛を向け続けてくれていたお姉ちゃん」に変わる、という箇所です。その点については、こちらの記事に詳しく書きました。↓


参考:リコ(=Record)が過去を赦して未来に目を向け始める〜『魔法つかいプリキュア!』第1クールのエッセンス


 そして、TVシリーズのテーマの圧縮にもたいていなってる『映画プリキュアオールスターズみんなで歌う♪奇跡の魔法!(感想)』でも、現在のソルシエールさんから見た「過去」の魔法使いさんの「見え方」が変わって、「呪い」のようなものが解けて、ようやっと「未来」へ歩み始められる……という形で描かれておりました。

 これらの「見え方」が変わるというギミックが、本映画内にも豊富に折り込まれており、それらが連絡し合って、逆転が決まるという展開になっておりました。

 ざっとあげるだけでも。


・クマのぬいぐるみからプリキュアに「見え方」が変わるモフルン
・黒いドラゴンさんから実は白いドラゴンさんだったと「見え方」が変わる
・強烈な匂いを放つ種が、忌避すべきものだったのから、リコさんを救う逆転のトリガーに「見え方」が変わる
・ダークマターさん、ア「クマ」さんから、クマタさんに「見え方」が変わって終劇


 などなど、です。

 「二項対立」、AかBかに合理で分かれて、お互いに戦争し合ってる世界観を、見事に乗り越えています。矛盾(アンビバレント)を、そのまま包摂する、という「和」の世界観。

 AとBは「見え方」の違いとして自由自在にゆらめいているもので、全体としては一つです。また、一つにして全体です。この全体にして一つ、一つにして全体。一切の矛盾と対立の姿こそが、そのまま存在の世界の実相である、という世界観が、「一即多・多即一」、みたいな、華厳的、ブディズム(仏教)方面の世界観で、明治期に近代合理主義が西洋から半ば暴力的に輸入される前までは、こちらの系譜の方がどちらかというと「和」の世界観でした。

 このギミックをもちいて「見え方」が変わり、クマタさんも、TVシリーズ第一クールのリコさんと同じく、「過去」の怨念の「見え方」が変わるのでした。

 ちょっと難しい感じでしたが、「排斥された/排斥する」というAと、「友達がほしい」というBが相克しあっていたのを、上記の方法論で包摂した、という形かと思います。

 排斥する、遠ざける、というのが、実は一緒にいたい、と表裏一体で、それは実相としては「一つにして全な」中でのゆらめきだ……というのは、みらいさんとモフルンの関係で、この映画の中心でも描いていたことです。みらいのためを思って、みらいは遠ざける(排斥する)、でも、いっしょにいたい! これはAかBかの二項対立で思い悩む類のことではなく、矛盾(アンビバレント)なまま包摂される気持ちなのです。

 最後に、クマ共同体のクマさん達がクマタさんを受け入れてくれたのは、最終イベント(主にはモフルンからの友達としての承認)を通過して、クマタさんが「過去」の排斥された怨念を手放しているので、クマさん達からのクマタさんの「見え方」が変わっている、ということです。メタに我々視聴者のクマタさんに対する「見え方」が変わっているように、一面では「友達ほしい」というクマタさんだったんだと、「見え方」が変わっているのです。

 というわけで、この項目の処方箋は、アンビバレント(矛盾)を、西欧合理的な二項対立の世界観で忌避するものと捉えず、「和」の世界観で、そのまま包摂する、です。


3.クライマックス

 そんな、「1」と「2」を受けての、クライマックスの(象徴として)暴走したグローバル資本主義とのバトルは、「和」の力全開という感じでした。

 異世界人同士のみらいさんとリコさんに、植物のはーちゃん、物でしかないモフルンさんがプリキュアになって乱れ飛ぶという絵自体が、もう、人間のみならず、植物から物まで心はあるさ、仏性はあるさな、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)にしてトーテミズムな「和」の世界観ですし。


参考:草木国土悉皆成仏を唱えてモフルン師匠にブッダが宿る〜魔法つかいプリキュア!第36話「みらいとモフルン、ときどきチクルン!って誰!?」の感想(ネタバレ注意)


 「見え方」が変わる(変えられる)の象徴的なギミックだったプリキュアさんのスタイルチェンジは、ついに全スタイルが同時展開。

 本作の最後のキーは、「過去」の受け取り方を捉えなおした上での、未知なる「未来」は想定不能の最高のもの(=奇跡)を選びとろうだと思っておりますが、モフルン変身が既に想定不能感あったのに、この全スタイル同時展開は、まさに想定不能の「奇跡」って感じで熱かったです。第7話(感想)の「人魚が空を飛んで良い」的発想の延長の、想像力の飛躍。TVシリーズラストは、これを超える想定不能くるの!?

 また、もはや伝説になってる『Go!プリンセスプリキュア』第一話の戦闘シーンの絵コンテの田中裕太監督なのか、このクライマックスバトルは、全部その水準のすさまじい「動く絵」としての、アニメーション・オブ・アニメーションでね……。その意味でも、ザ・ジャパン。

 敵さんのクマたちが、全部マクドナルドでいい的な悪い方向でのグローバル化的な「均質」的な黒色のドロドロしたものだったのに対して、日本のくまモンさんら、意味不明に多様に咲き誇り過ぎてる謎クマさん達が本映画には出演。

 全てを飲み込もうと暴走している「力」に対して、「和」なる力は咲き誇る。

 「和」の力とアバウトに書いてきておりましたが、もう、和の国の文化文脈の源流に木霊している、ブディズム(仏教)チックな世界観の中でも、『華厳経』の、善財童子が大楼閣の中に無数の楼閣があることを見つけたシーンを引用しておいたりしてみます。シンボルとして、分かりやすいので。


これらの無数の楼閣は、互いに侵害し合わない。それぞれが他のすべてと調和して個としての存在を保っている。ここには、一つの楼閣が他のすべてと個的または集合的に融合するのを妨害するものはない。完全なる混合状態にありながら、しかも完全なる秩序を保っているのである


 こういうのが、「和」の世界観です。

 「同質化」するために、競争原理にのっとってより強く、より速く、より大きくを求めるだけとか、そんな無粋な世界観に、負けたくないんです。

 ダイヤ、ルビー、サファイヤ、トパーズが同時展開して舞う絵は、まさに千変万化の世界。和の場所で百色に揺らぎ続ける花雪。あるいは虚無の中で補い合い続ける暗闇と星アカリ。この力で、戦うんだ。

 それは、失われた類の力なのかもしれません。

 モフルンが一回死ぬのは、そういった「和」の世界観の喪失と、「大事な人といっしょにいる」ことが本当の願いであったことに死別まで気付かない現代人への風刺と、二重の意味で象徴的です。

 だけど、そこから立ち上がってみせる、取り戻してみせる、復活してみせる、奇跡を起こしてみせる物語。

 現実も、「過去」の延長線上だけの未来しか訪れないのなら、金融危機に超少子高齢化にまたくるかもしれない大きい災害に、エトセトラにと、それこそデウスマストに象徴されてるような事柄満載で、暗いです。

 だけど、人魚が空を飛ぶように、モフルンが変身するように、四スタイル同時展開するように、思いがけない想像(創造)の力で、「奇跡(ミラクル)」を起こして最高の「未来」を選びとるということ。そのために、今では一笑にフされるようになってしまったかもしれない「いっしょにいたい」という願いを掲げて、「和」の世界観で武装して立ち上がるということ。

 今年も素晴らしい映画でした。

 続いて発表された、来年の春の映画『映画プリキュアドリームスターズ!(公式サイト)』は、今回の感想の話がドンピシャなように、「和」のモチーフです。七色だった「虹」色モチーフの先へ。「百花繚乱」、きめてくれる気みたいです。

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