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 相羽です。

 2018年の公開当時色々とタイミングが合わなくて観れてなかった『映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ(公式サイト)』をようやく観ましたので感想です。

 こ、これは!?

 めちゃめちゃ素晴らしい映画でした。

 以下、ネタバレを含んでおりますので、まだ観てない方はご注意下さい。
 ◇◇◇

 映画本編は大きく二つのパートに分けられます。


●映画前編

 何度か『HUGっと!プリキュア』本編の感想の方で書いている話題ですが、

 『HUGっと!』の広報も兼ねていると思われる『プリキュア15周年記念PV 公開 〜ふたりの勇気はわたしの「夢」でした〜』を観てみると……↓

 『HUGっと!プリキュア』は作品の裏ターゲットに「昔プリキュアを見ていたような現在20代くらいの女性」もありそうな作品だったのでした。

 彼女たちは、子供の頃に「イメージしていた理想の未来」が実現できたのか?

 実現できなかった人の方が多いと思います。

 「当初イメージしていた未来が思ったように実現できない」野乃はなさんは、そんな彼女らに重なる感じの主人公です。本作の中心要素の一つに「子育て」がありますが、リアルに子育てをしている時に本作でプリキュアに再会したという視聴者もいるでしょう。

 物語のエッセンスが詰め込まれている第1話の冒頭で、主人公の野乃はなさんが前髪を切り過ぎる、転校初日の自己紹介で失敗する……と「当初イメージしていた理想の未来が思ったように実現できない」という様子が描かれるのは、この作品は「子供の頃に思い描いた理想の(当時観ていたプリキュアのような)自分にはなれなかった、大人の現実に直面している人」に向けて贈る作品ですよ……というシンボル(象徴)です。

 そして、必ずしも「当初イメージしていた理想の未来が思ったように実現できなかったこと」を否定的に描いていないのが『HUGっと!プリキュア』という作品です。

 野乃はなさんの、前髪を切りすぎちゃった自分(「理想」通りにはいかなかった自分)を、それも意外と似合っている自分自身へ紡ぎ直していく過程が描かれている作品です。

 映画の「前編」パートはいわば、子供の頃にプリキュアを観ていた人が今、大人になるにあたって……というコンセプトが一つある『HUGっと!プリキュア』という作品の映画として、厳しい(大人の)「現実」の前に一度倒れ伏した野乃はなさんがもう一度立ち上がるまで。

 挿入歌が流れるタイミングもここですし、はなさんが子供の頃、15年前に思い描いた「理想=プリキュア=キュアブラックとキュアホワイト」を見上げて立ち上がる……という前半パートのクライマックスまでで、この映画は一区切りついていると思うのでした。

 このシーンは「プリキュアシリーズ15周年かつ野乃はなの映画」として完璧すぎて身震いがしました。


●「分断」された15年前の友情(繋がり)

 今回の映画では美墨なぎささんと雪城ほのかさんが、何かにつけて「15年前憧れていた(理想の)自分(視聴者)」を象徴しているものと思われます。

 そんな、なぎさとほのかが、ミデンの攻撃によりほのかが記憶を奪われ幼児化、「理想のふたり」の友情(繋がり)が「分断」されてしまう展開になります。

 鑑みて、15年たった現実の我々(視聴者)。そういえば、子供の頃に仲が良かった友だちとかと、最近はもう連絡も取ってないような……。

 「分断」されてしまっていたのは現実のリア友とかもしれないですし、虚構(フィクション)としてのプリキュアシリーズともかもしれません。最近プリキュアとか観ていなかった。子どもの頃の「理想」であった「プリキュア」みたいな人間になんかなれなくて、今では「理想」とは遠い苦しい「現実」を生きている……。

 この「分断」を最初に打ち破るのが雪城ほのかさんです。

 ほのかさんの胸からミラクルライト(=子供の頃にプリキュアを応援していた気持ち)が出てくるシーンには問答無用の感動があります。

 何故、最初に打ち破るが彼女なのかと言えば、『ふたりはプリキュア(感想)』&『ふたりはプリキュアMaxHeart(感想)』最終回で、プリキュア史に残る名セリフにして、続く全シリーズの根底スピリットの一つを成す、


 「わたし達の心の中の宇宙は誰からも自由だわ」(ホワイト)


 という言葉を口にした人だから。


参考:闇夜に浮かんだ虹の架け橋ここに降りて奇跡☆/最終話「扉を開けて!ここから始まる物語」/ふたりはプリキュアMaxHeart感想


 心の中は自由。だったら「分断」、今からもう一度繋ぎ直したってイイ。

 作品、というかプリキュアシリーズの象徴(シンボル)であるなぎさとほのかの手繋ぎから、ふたりが再変身(=「子供の頃に憧れた「理想」は死んでいなかった」という表現)。

 その「ふたり」=「子供の頃に憧れていた理想のなりたい自分=プリキュア」の勇姿を見上げて、はなさん(=子供の頃の「理想」通りには生きられなかった15年後の「現実」の自分)も立ち上がります。

 今回、はなさんが倒れ伏すに至った、幼児化したえみるさんやさあやさん・ほまれさんたちの面倒をみるのに疲弊していくパートは、「現実」での「育児」を連想させます。

 『ふたりはプリキュア』当時4歳〜7歳くらい(プリキュアシリーズのメイン視聴者層はこのくらいと言われています)で『ふたりはプリキュア』を観ていて、15年後の現在(2018年)19歳〜22歳。日本の現在の出産の平均年齢よりは低いですが、実際に現在育児をしている視聴者もいるでしょう。

 あるいは介護。

 私事で恐縮ですが、僕なんかも、22歳から15年以上半身不随の親の介護をしており、なかなか15年前からすると「当初イメージしていた理想の未来が思ったように実現できない」に当てはまっている日々を送ってる感じの人間です。

 子育てとか介護は、大人になってから直面する「厳しい現実」としてはあるあるです。

 自分以外の誰かを助けながら生きられるような、ヒーローめいた人間には、「現実」の自分はなれなかったんだ……。

 しかし、どんなに「現実」の今の自分が摩耗していようと、雪城ほのかさんが証明したように、心の奥に子供の頃に憧れた理想(=プリキュア)を応援していた「思い出」は残っている。

 今、ここから、「心の自由」で何を思い描き始めてもイイと、ほのかさんは改めて伝えている。


 「忘れちゃっていたのは、私の方だよ」

 「思い出は、ずっとここにあるのに」

 「私は一人なんかじゃないのに」

 「これしきのことで心折れるとか、私のなりたい野乃はなじゃない!」(野乃はな)



 はなさんの再変身と共に、挿入歌「リワインドメモリー」が開始。

 ほぼ逆ギレです。

 逆ギレですが、カッコいい。

 ああ、確かに「子供の頃に思い描いた理想の自分」にはなれなかった。どこかで、前髪を切りすぎてしまったのだ。だが、「思い出」は、子供の頃に憧れた「理想」への気持ち(=プリキュアへの気持ち)に意味がなくなんかない。いや、意味がないものにしないためにも。「現実」の、当初の「理想」通りにはいかなかった次善の自分なりに立ち上がるんだ。切りすぎた前髪が、ふさわしくなるように生きていくことはできる。

 繰り返しますが、このシーンは「プリキュアシリーズ15周年かつ野乃はなの映画」として完璧です。

 僕は、長年プリキュアシリーズを観ている友人のRubyさん(Twitter)の一連の考察↓、


参考:「HUGっと!プリキュア 最終回考察」カテゴリ/穴にハマったアリスたち


 と同じく、『HUGっと!プリキュア』に関しては、「はなさんは未来の『破綻』は避けられない」(と解釈している)派なので、なおさらこの一連のシーンは熱いです。

 『破綻』は避けられないが、関係ない。それでも立ち上がる。

 近年のプリキュアシリーズについて回っている『未来の破綻』という物語上の要素。東日本大震災以降は、次なる大災害であるとか、あるいは金融崩壊であるとか、色々に連想は可能ですが、究極的には「終わり」という意味で「死」のことなのかなと思っています。

 『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?(感想)』でのルーレット伯爵の言葉。


 「山あり谷あり乗り越えて、行き着く先はたったひとつ。ゴール」(ルーレット伯爵)


 どうせ、人間は死ぬ。

 この前提のもとで、それでも何故我々は立ち上がったり頑張ったりするのか、近年のプリキュアシリーズはずっとその部分を描いている気がします。

 実際、今回の映画での解法も『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』に近いです。やっぱり、『フレッシュプリキュア!(感想)』は「やり直せる」という強いメッセージを描いた点でプリキュアシリーズ全体を通しても重要作品なんだな……。

 『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』では、それでも輝いている劇場で子供たちがミラクルライトを降る光景の美しさに希望が見いだせるような(メタ)ギミックが演出され、最後はトイマジンさんは「死」という終わりがあっても「次」の「やり直し」へと進んでいくのですが(『フレッシュ』本編でイース様が一回死んでキュアパッションへと生まれ変わったように)。

(この辺りは、あるいは宗教的な『輪廻』みたいな方向に今ひとつピンとこない場合は、自分が死んでも「次」の世代へと何かは残る……くらいに捉えてみるとしっくりくるかもしれない。あなたが死んだ後も、あなたが残した「何か」も込みで世界は形成されていく……)


●映画後編

 映画前編パートではなさんが示した解答が、


 「忘れちゃっていたのは、私の方だよ」

 「思い出は、ずっとここにあるのに」

 「私は一人なんかじゃないのに」

 「これしきのことで心折れるとか、私のなりたい野乃はなじゃない!」(野乃はな)



 という「思い出があるから踏ん張れる」という解法だったので、映画後編では、では、ミデンのように「思い出」すら何もない人間はどうするのか? という点が描かれます。

 ミデンは世界から……というか、プリキュアシリーズの源流に「(行き過ぎた)グローバリズムってどうなの?」という思索がある点も考えると、

(わりと、初代プロデューサーの鷲尾天さんのインタビューなどでも語られている真面目な話です↓)


参考:鷲尾天氏のエッセンス〜均質化に向かう世界で「見え方が変わる」を守るということ―魔法つかいプリキュア!第15話「ハチャメチャ大混乱!はーちゃん七変化!」の感想(ネタバレ注意)


 売れなかったカメラであるミデンは、グローバル資本主義に傾きすぎている世界では、「切り捨てられた」側の存在です。

 はなさんのように、「思い出」で立ち上がれる人は、実はまだイイ。

 それは現実に当てはめるなら経済活動の中で切り捨てられるかたちで解雇されて失職から再起できなかったとか、あるいは病気や障害がきっかけであるとか、大災害にあってから復活が難しかったとか、ともかくはなさんとかとは違う位相で、15年分の「思い出」すら構築してくるのが難しかった人間も世界にはいる。

 そういった「孤立者」の象徴であるミデンに対して、「劇場で子供たちがミラクルライトを降る光景の美しさ」に相当するような、何らかの希望・救いがあり得るのか?

 ミデンだって、当初は「イケてるカメラ」としてバカ売れしてたくさんの幸せな風景を写真に撮る……未来を思い描いていたかもしれません。

 でも、そうはならなかった。

 つまり、「当初思い描いていたイメージ通りの理想の自分にはなれなかった」のは、野乃はなさんとミデンとで同じなのです。パラメータが、「思い出があったか/なかったか」「仲間(や家族)がいたか/いなかったか」で分かれているだけ。

 はなさんとミデンとが向かい合っているカットは、二人は「鏡合わせ」であるという演出に思えます。

 後者の側、たとえば現実でいえば経済的に恵まれなかった人、災害にあった人、病気になった人、などなどは遠い誰かではなく、なり得たかもしれない鏡合わせの自分自身です。

 彼・彼女らに共感(エンパシー)を向けた上で、じゃあどうするのか、何ができるのか?

 この点に関して、映画のラスト、「歴代のプリキュアシリーズだったら、ミデンという存在に対してどういう希望・救いを提示するか」というのが、怒涛のように描かれます。

 この点に関しては、長年プリキュアシリーズを観ている友人のRubyさんが、それぞれのシリーズのミデンへの「解法」についてブログでまとめているので、こちらの記事を参照して頂けたらと思います。本当面白い記事です。↓


感想「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」 :リワインドメモリーと歴代様/穴にハマったアリスたち


 Rubyさんはこの映画に関して二回感想書いてるんだけど、こっちの初回視聴時のもイイですヨ。↓


感想「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」/穴にハマったアリスたち


 そして、僕がまとめた(Rubyさんには許可とってありますw)こちらのまとめも読んで、オールドファンとかは涙するがよいよい。↓


プリキュア視聴歴15年の今では父になったRubyさんがお子さんとプリキュアライブに参加した連続感想ツイートがしみじみと面白かったのでまとめてみた/togetter


 当たり前ですが、プリキュアシリーズに関して最高に熟知している人たちが作っている映画なので、ラストの各シリーズからのミデンへのメッセージのシーンは、本当にそれぞれのシリーズのことをよく分かってる人たちが、短いカットに各シリーズのエッセンスを凝縮させて伝えているんだな〜というのが感無量です。

 僕からは特に『ドキドキ!』と『スイート』。

 『ドキドキ!プリキュア(感想)』(2013年)、相田マナさんからミデンに伝えられた言葉は、短く、


 「愛を知らない悲しいカメラさん。あたしたちプリキュアが、あなたのドキドキ、取り戻してみせる」(キュアハート)


 のみ。

 これは、一見上から目線にも捉えられかねないのですが、マナさんは能力的には最強の「幸せの王子」でも、マシュマロを助けられなかった人、という物語が遠景にはあります。

 お祖母ちゃんのもとに幼マナさんが走って行っている間に、マシュマロは死んだ。世界には切り捨てられる側がいて、全員は助けられない。ここでは、連想としてマシュマロ=ミデンです。

 『ドキドキ!』の映画『映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!』について詳しくはこちらに書いております。↓


映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!/感想(ネタバレ注意)


 そういった物語が背後にある上で、TVシリーズのラスト、再びレジーナの元に走っていったマナさんを「切り捨てられた」側、「犠牲者」側の怨念が狙った時、同じく作中では「切り捨てられた」側の存在(王様が娘を選んだ代わりに選んでもらえなかったトランプ王国国民の側だから)であるキュアソード・剣崎真琴が颯爽と現れて、マナさんを狙った怨念を撃ち落とし、一言、


 「愛に罪はない」(剣崎真琴)


 と言い放ちます。

 このシーンで、そのままでは童話のように人助けの末に身をすり減らし最後には破綻するしかなかったかもしれない「幸せの王子」相田マナは報われています。


参考:ドキドキ!プリキュア感想/第48話「ドキドキ全開!プリキュアVSキングジコチュー!」


 切り捨てた側(幼少時にマナさんもマシュマロではなくお祖母ちゃんを選ぶということをやっている)にも、切り捨てられた側にも向けられる、大きな意味での「愛」。

 そこまで『ドキドキ!』というシリーズを踏まえると、ミデンにも「愛」は取り戻せるとマナさんは思っているのが伝わってきます。

 そして『スイートプリキュア♪(感想)』(2011年)、ミデンへのメッセージは、


 「私には聴こえる、ミデンの悲しみが」(キュアリズム)


 ここでいう「ミデンの悲しみ」は、「スイート」の第47話でノイズ様(スイートのラスボス)の自分の音楽=「悲しみ」となりますので、「スイート」の感想ではさんざん書いてきた「自分の音楽(ビート)」のことです。ミデンの音楽(ビート)ですね。

 「自分の音楽」というような言い方をされていますが、自分自身の本懐、本当の気持ち、本当にやりたいこと、本来性、天命から与えられているがごときライフテーマ、といった類のものでしょうか。

 Rubyさんは第47話の、ノイズ様にも「悲しい」というプリキュアたちと共有できるビート(音楽)があった点を特にあげらていますが、僕的には『スイート』関連の文脈では第46話とやはり劇場版です。

 『スイートプリキュア♪』第46話。

 ついに守りたかったメイジャーランドも壊滅して、全てが滅びさった。何もかも終わったと思われた時、それでもなお聴こえてくる音楽があることに響は気づきます。

 それは、自分自身のビート(音楽)。心臓の音。

 まだ自分の鼓動がアリ、白紙の楽譜(未来)がある。だったら、何度でも、自分のビートで新しい音楽を描こう、そして一緒に演奏しよう。


 「音は絶対になくならないドド」(ドリー)


 そうして、アフロディテ様から与えられたものとは違う、北条響・自分自身の鼓動から生まれてくるそれまでとは別のキュアモジューレ(だからキュアモジューレはハート型だったのか、とここで明らかになる)で最後の変身。

 それくらい、「自分のビート」とは強く、何もかも失ったと思われても消えない場所に、自分自身の心の中の確かな場所に響き続けているもの。


参考:スイートプリキュア♪感想/第46話「ズゴーン!プリキュア最後の戦いニャ!」


 そして劇場版『映画スイートプリキュアとりもどせ! 心がつなぐ奇跡のメロディ』。

 強大な敵の前に、なんとこの映画では、ミラクルライトで逆転してから、もう一度決定的なピンチが訪れます。

 ビートとミューズは落とされ、リズムは敵の手に、残るは響さんだけ。そんな響さんもついには大ダメージ。何もかも終わったかと思われたその時、「ドクン」って響さんの鼓動が鳴るのが印象的に描かれるのです。

 何があっても、「心の音楽」としての「自分のビート」だけは消えないんです。

 みんなの音楽、みんなの力を受け取ってパワーアップはよい、それは大事なこと。だけど、まず始まりは、やはり「自分のビート」なんだ。響さんは立ち上がります。

 この、響さんの心臓の音が木霊す演出のところで、僕は、この破綻的な状況でなお、響の心の音楽(自分のビート)は消えないんだッ……と鳥肌が立ちました。

 そして、「奏を返してもらう」と響さんは愛する人を希求します。

 この映画、東日本大震災の年の2011年の映画ですからね。

 物理的に何もかも壊れてしまっても、消えない大事な何か(=音楽 =自分のビート)があるということ。それは、奪われはしないということ。

 ミデンにも、(それがたとえ「悲しみ」の類の属性のものだとしても)そういうものがあると奏さんは言っているのです。

 また私事で恐縮ですが、僕自身も東北は宮城県で被災し、それまでいつもプリキュアシリーズの映画を観ていた劇場が震災で壊れて長く閉鎖していて、ようやっと復旧した……というタイミングで観た映画でした。

 ちなみに、より公開が震災が直撃の時期だった『映画プリキュアオールスターズDX3未来にとどけ!世界をつなぐ☆虹色の花(感想)』の方はついぞ映画館で観ることはかなわず、Rubyさんにパンフレットだけ東京で買ってもらっていて、後にオフ会で受け取りました(笑)

 いや、これ、リアルの方でもそうとう絶望的な状況でも、そうそう消えないものもある、という話ですヨ。

 震災の状況でも自分のビートを感じた人/感じてくれた人がいた……という事実は、今、ミデン的な状況にある人にとって、けっこう励みになることだと思ったりもするのです。

 新型コロナウイルスにまつわる事象(パンデミック)も豪雨災害も本当に本当に大変なのですが、「街が壊滅したが、立ち上がったことがある」という経験(本映画の文脈的には「思い出」)があるというのは、大きいと感じるのでした。

 そんなこんなで、15年。

 昔思い描いていた「理想」の自分にはなれなかった、「現実」を生きているはなさんのような人たちへのエールと。

 そして、はなさんというより、ミデンになっていた人へも、(けっしてあおりとかじゃなく)ミデンなりにここから生きていこうゼ、という最高の映画だったのでした。

 ミデンに対しても、いわゆる自己責任論みたいなことは言わないんですよね。

 そうではなくて、これまでのプリキュアシリーズのどれかに、あなたに合った解法があるはずという映画です(笑)

 これって、どちらかというとロックな感じです。

 15年前におもむろに肉弾戦で拳をふるったなぎさ&ほのかのノリ・勢いは、どこかでずっと続いるプリキュアシリーズだと思います。

 15年経っても、そしてこれから先も、我々が何かしら倒れ付さざるを得なくなるような事象はやってくるのでしょう。

 しかし、それでも立ち上がり、また拳をふるうのです。

 プリキュアノリで生きてる人たちはマジでヤバイ(え)ので、みんなも、これからもそんな感じで生きていこうゼ!

 ……

 と感じたりした、「メモリーズ」として本当に素晴らしい映画だったのでした。

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 実験的にしばらくコメント欄を開けておいてみるので、何かプリキュアシリーズの話とかありましたら〜。

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→前回:映画プリキュアミラクルユニバースの感想〜分断された宇宙を接ぎ直す物語(ネタバレ注意)
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