ブログネタ
マリア様がみてる に参加中!
 「じゃ、お菓子を買って下さい」(福沢祐巳)

 以下、『マリア様がみてる』新刊『キラキラまわる』の、相変わらずの長い(笑)ネタバレ感想です。
 ◇

 祥子さま、令さま卒業前の「皆での楽しい時間」を切り取るのにまるまる一冊使った巻だったのだと思います。前巻「薔薇の花かんむり」ラストの、

 いつか終わりが来るとわかっているけれど。
 こうして仲間に囲まれて。
 このままずっと踊っていたかった。


 の部分をエピソードにして肉付けしてまるまる1巻分描いた感じ。

 で、ラスト近くの祥子さまと乗ったメリーゴーラウンドのシーンと、ラストの花火のシーンで、祐巳が気付きを得て、たぶんこのテーマ、特に「いつか終わりが来るとわかっているけれど」の部分の心情に対して、祐巳の中で何かが決着しています。瞳子との妹問題が一段落した今、祐巳二年次物語で最後にフォーカスが当たるのは、祐巳は祥子さまの卒業を受け入れられることができるのかという部分だと思うんですが、今巻で、祐巳が祥子さまを笑って送り出せる土台はもう全部整った感じ。

 今巻を通して、また最後のメリーゴーラウンドのシーンと花火のシーンで祐巳が持った感覚は、言語化しようとすると難しいですね。ある程度大人になった経験者だと、アレか、と直感的に理解できると思うんですが。

 例えば、僕も大学時代にそれこそ今巻で描かれた12人のような仲間がいて、「ずっと踊って」いる時間を過ごしていたわけですが、そのような仲間達と現在何かが終わってしまっているかというと、そんなことはなく、気軽にメールもするし、年に何回かは会って、その時はまたあの時の時間は共有できるわけです。それでいて、大学時代の「踊って」いた時間(遊園地にはいかなかったけど(笑))が、僕たちの中でなんら色褪せているわけでもない。それこそ、今巻ラストの一文のように。

 花火の華やかさは、つかの間。
 だけど忘れない。
 みんなの笑顔。
 いろいろあったけれど、楽しかったねって感想を添えて。
 きっと。
 ずっと。


 こういった感覚があるから、すぐに消えてしまう花火のような時間だとしても、「踊って」いた時間は生き続けるんだと。そういう感覚なんですが、これ、やっぱ経験した人にじゃないと伝えづらいな。でも、経験済みの大人読者からすると、ああ、分かる分かるという感じ。

 そういった感覚に至る祐巳を表現している今巻最重要シーンが、

 「じゃ、お菓子を買って下さい」(福沢祐巳)

 「物がなくても覚えていますから。おいしかったって記憶をのこしておくっていうの、どうですか」(福沢祐巳)

 のショッピングの場面なわけで。

 形あるもの(=今いる祥子さま)、から、消えてしまっても残り続けるもの(上述したような感覚)に、祐巳の中でシフトした場面というか。ああ、やっぱり、もうこの場面で作中の「祐巳が祥子さまを笑って送り出せるかどうか」の部分には解答を与えている気がしてきた。もう、形式上祥子さまそのものがリリアンから消えても(食べればなくなるお菓子で比喩)、祐巳は大丈夫だ、という場面に取れます。

 そんなこんなで、以下は祐巳−祥子さま以外のカップリング別の語り。

●由乃−令さま

 相変わらず何やってるんだ状態ですが、これも、

 いつか終わりが来るとわかっているけれど。
 こうして仲間に囲まれて。
 このままずっと踊っていたかった。


 を受けての、もうすぐくる「終わり」である令さま卒業前の、最後の「踊って」る部分を、いつも通りの不和になる由乃と令さま→仲直りまでを描く……のお話で表現していたのだと思います。こんな、由乃と令ちゃんのいつもの黄薔薇のお話も、たぶん、そろそろ、これで最後。だけど、だからこそそれは尊いし、そういった時間は残ると、そんな感じ。

●志摩子さん−乃梨子

 志摩子さんの父が実は実の父ではなく祖父という事実にショックを受ける乃梨子という冒頭からはじまって、やがてそのことをどうってことないという志摩子さんの感覚に観覧車の中で乃梨子が到達するまでのお話。
 結局の所、今存在する友情の価値を切り取っていたんじゃないかと思います。観覧車の中でお寺の娘であることを隠してた頃がつらかったと志摩子さんが述懐してることから、そういった状態から連れ出してくれた乃梨子をはじめ、祐巳達にも感謝していると。逆に言えばそういった乃梨子や祐巳といった仲間がいなかったら、あるいは志摩子さんも瞳子のように自分の出生に関して心の負荷を抱えることになっていたのかもしれないけれど、志摩子さんはそうではないから。

 「だってこんなに可愛い乃梨子が側にいるんですもの」(藤堂志摩子)

 この台詞を聴いて、乃梨子がようやく志摩子さんの「どうってことない」を実感できたというのはそういうことなんじゃないかと。

●蔦子さん−笙子ちゃん

 ここでも、フォーカスになってたのはやっぱり友情。カメラがアイデンティティである蔦子さんはカメラがなかったら自分の居場所はないんじゃないか?的なことも一応考えていたわけですが、祐巳はそんな不安を容易に無効化して蔦子さんをカメラどうこうじゃなく、ただの親友として想ってくれているという。そして、それは笙子の気持ちも同じ事(笙子は親友ではなく親愛の先輩としてで、まだ、カメラと蔦子さんを切り離し切れてはいない感じだけど(だから、蔦子さんがそういう意味で拠り所の第一に祐巳をあげていることに若干嫉妬したりもする))。ここでも、重要だったのは、やがて形式上は終わる「踊って」いる時間に咲いた、終わらない「何か」のお話。リリアンを卒業してもなんでも、カメラを持っていようといまいと、祐巳と蔦子さんの友情もずっと続いていくのでしょう。

●祐巳−柏木さん

 柏木さんには救いきれなかった瞳子を祐巳が救った。祐巳は「安定」「どっしり」といった属性を最近獲得してきている……という部分の背景の種明かしは、「あなたを探しに」の、

 柏木さんの言った言葉が甦る。祐巳はフッフッと息を吐いて、その幻想を振り払った。<中略>その決心の前で、受け止めるとか受け止めないとかいう議論は、まったくの無意味なのだった。

 の部分で全て表現していると思っていたので(「フッフッと息を吐いて」の部分で「どっしり」や「安定」を表現、「議論は、まったくの無意味なのだった」の部分で、祐巳のある側面での柏木さん超えを表現)、改めて言語化しなくても解る人にだけ解ればいい的に処理してもらっても良かったかなな部分なんですが、一応柏木さんからの祐巳へのお礼、地の文での「どっしり」「安定」の解説(だから瞳子は祐巳に寄りかかれた)で、解りやすく言語化して説明。

 柏木さんはイイ奴だよなー。「口説かれてる?」とか祐巳露骨に嫌な顔してたけど(笑)、外見だけじゃなくて柏木さんはちゃんと内面に骨があるヤツ的な意味でもそうとう上等な男だということを祐巳も理解して欲しい(笑)。まあ、結局二人でジェットコースターに乗るのを受け入れているシーンで、祐巳がちょっと表面的にはツンとしながらも柏木さんを高く認めている(認め始めている)様は今回挿入されましたけど。

●瞳子−可南子

 なんで急に仲良くなったのかまだ描かれていないんですが、たぶん瞳子が見つけた可南子と瞳子に通じる共通点というのは、「フレーム オブ マインド」の感想の、「光のつぼみ」の部分の感想で書いたようなこと。よって、今回はまだ独特の距離感を出しながらも、基本的にお互いがお互いの理解者モード。無駄にお茶目要因になってる可南子をはじめ、面白かったです。ひびき玲音先生がわざわざイラスト化して面白状態の可南子をビジュアル化してるのには笑った(笑)。

 ◇

 そんなこんなで、12人の仲間の友情といいますか、人間関係の深さを切り取っての、例え卒業なんかの区切りで何かが終わっても、ずっとずっとそれらの気持ち、楽しかった「踊って」いた時間の貴さは「残る」、「生きる」というのに繋げるために、まるまる1冊を使って、「踊って」いる時間、お菓子の甘さを味わっている時間、花火が輝いている時間を切り取ったエピソードでした。舞台が遊園地という箱庭で、所々にこの空間の箱庭性を表現する描写が入っているのもそっちの方向の暗示なんだと思います。この輝いてる時間、「踊って」いる時間はホンモノでも、どこかでやはり箱庭の中のものに過ぎない虚構感(外に出れば終わってしまうという遊園地の特性とシンクロさせて描いている)もつきまとう。だけど、一方でその虚構性の中で経験した仲間との時間はやはりホンモノな気もするし、ずっと続いていく気もする。そんな微細な心情を、やがてリリアンという一つの箱庭から出て行く祥子さまという作中時間軸上の契機を絡めて、上手く表現していたと思います。キャラクター小説的な楽しさだけじゃなく、こういったピコ文芸的な繊細さが、やっぱりマリみての魅力だよなぁ。

 ◇

 ↓にて、『マリア様がみてる』に関する感想などの関連コメント、トラックバックもお待ちしております。節度を守った上でお気軽にどうぞ。

→だいぶマリみてオマージュ入ったオリジナル少女小説書いてます↓



前巻『薔薇の花かんむり』の感想へ
次巻『マーガレットにリボン』の感想へ
『マリア様がみてる』感想・レビューインデックスへ