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 アカデミックな研究のブログは別に改めて作るかもしれないですが、暫定的にこのブログに書き綴っておきます。
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 今でこそ漫画やアニメの少女作品のおっかけブログみたいなものをやっておりますが、昔から少女アニメが好きだったかというとそんなこともなく、僕が入ったのは『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』からだったりします。

 この「構造と実存の少女学(仮)」を書き始めるにあたって、この探求したいと思える欲求の原点となる出来事が個人的にその頃に二つほどあって、一つめは、

●スロヴェニアのコペルの教会で見かけた双子の少女の神性

 です。

 日本語教師の実習でスロヴェニアに滞在していた時、現地の友人の案内でコペル観光をしていた時です。ある教会を訪れた時に、偶然そこにいた母親に連れられていた双子の少女に、何か神聖なものを僕は感じたという出来事がありました。

 一応断っておくと、ロリコン的な方面ではなく(いや、この言葉も定義と使い方が難しいですが)、なんというか、美しく作られている世界とその中にいる人間という構図に畏怖を感じたというような、どっちかというと宗教的な方面での感動です。これも研究の過程としてメモしておくと、物理学や数学で、「法則」の中に美しさを見出した時の感覚が個人的には一番近かった。

 この時の感動が、「少女」という対象にアプリオリに備わっているのか? というのを一つは考えてみたい、というのが原点の一つです。

 教会というシチェーションだった。双子という色々と神性を想起しやすい対象だった(シンメトリーに同じ姿で存在してるとか、何か芸術方面を追求していく上でぶち当たる深さがありますよね)。単純にその少女達が可愛かった(笑)、など、色々な要因が考えられるのですが、あえて「少女」だったという点に、その神性の源泉があったのではないかという最初の仮設でお話をスタートさせてみたいと思います。

 つまり、人間の精神には、発現する条件は色々とあるにしろ、「少女」という対象から神性のようなものを感じ取る能力が、普遍的に備わっているのではないか? という仮設です。

 主観と客観の話になりますが、対象として「少女」に「神性の源泉」のようなものが客観的に備わっていて、主観としてそれを受け入れる人間精神側にも、その対象から神性を感じ取る何かが備わっているという感じでしょうか。

 で、話は二つめに続きます。

 二つ目は、

●少女アニメを見たり、少女小説を読んだりしていたら、心の病が治った

 です。

 大学時代の前半を心の病でどうしようもなく過ごしたという経験があるのですが(後に今で言うパニック障害のようなものだったと捉えられるのですが)、それが、『おジャ魔女どれみ』を見ていたら治ったというような気が個人的にはしています。もちろん、それだけじゃなくて普通に薬が効いたとか、様々な要因はあるのですが、わりと真面目に『おジャ魔女どれみ』の果たした役割は大きい気がしています。

 さらにもう少し時間が進んで母親が倒れて意識不明になって、自分は24時間介護生活に突入し……という時期に、もう一度病気が再発して大変だったんですが、この時は『マリア様がみてる』を読んでたら治ったというような気が個人的にはしています。

 本当に、ジャンプもマガジンも読んでて苦しくなって倒れそうになりそうな感じで数年間まともに読めなかったのに、何故に『マリア様がみてる』だけは大丈夫だったのか。その点が素で知りたい。

 それらの点が、一点目と繋がります。

 まあ、スロヴェニアのリアル双子少女と、二次元の少女作品の少女という違いはあるのですが、「少女」には、神性からちょっと派生して、癒し効果みたいなのもあるんじゃないか? という仮設です。

 これが、単純に僕だけの個人的な癒し効果や神聖性の受信に過ぎなかったのか、結構人間全般に普遍的に眠っているのか、あるいは文化的な要因で違ってくるのか、などは色々と考えられるのですが、とりあえず、やっぱり「少女」という要因は大きくないだろうか? というのが、研究の出発点です。

 文化的、経験的要因に過ぎない可能性は常に付きまとうのですが、ぶっちゃけコペルで出会ったのがむさ苦しい一人のオッサンだったとして、神性を感じただろうか? というのと、心を病んでいた時代に、『魁!!男塾』を読むよりは、やはり『おジャ魔女どれみ』や『マリア様がみてる』を見たり読んだりする方が、癒し効果は高いのではないか? といった感覚的な根拠が一応の出発点になっています。

 という感じで、この研究、ときどき「続く」感じです。

▼メモ
・上記二つの経験が、最近の少女作品で、夢原のぞみさんと、福沢祐巳さんに僕が注目せざるを得ない理由なのだと、最近気づきました。「夢原さん=神」は、半分「(笑)」な感じだけど、コペルの経験からずっと持ち続けている僕の意識、「少女=神性」という観点から無視できない感じなのです。夢原さんの潜在的な素質に、周りのみんなが救われていくという『プリキュア5(GoGo!)』はやはりビンビンとアンテナにきます。
もう一人、『マリア様がみてる』の「祐巳」の方は、僕は後期の成長後の祐巳が好きなんですが、瞳子という精神的な危機を抱えている少女が、祐巳という存在を通して癒しに到達するという大まかな祐巳・瞳子編のラインは、やはり少女という対象と「癒し」の関係に関して、なんだか無視できない感じです。
・ここからは一応「ギャグ」として聞いて欲しいのですが、もし「少女」と癒し効果との関係にある程度の普遍性が立証されると、なんとなく社会的に元気が無い時に、みんなでプリキュアさんを見ると元気になる、みたいな世の中に。
そこまで来ると、さっきの「神性」の話も加わって、プリキュアさんも一種の宗教、国教に。
ぶっちゃけ、何らかの信仰対象を信仰することで心的な糧を得て、壺(何らかの信仰アイテムならなんでもいいのですが)を買ったりする宗教活動と、プリキュアさんを見て心的な糧を得て、プリキュアグッズを買うといった活動は、広義で宗教的行動と言えなくもない(宗教的行動は広義に取るとなんでも当てはまってしまいますが)。
「特定の宗教が無い」とよく言われる日本ですが、外国人に宗教は何かと聞かれた時に、自信を持って「プリキュアです!」と答える未来が来るような来ないような。プリキュア国教化説。
無駄に、八百万の神で多様な価値観を内包する土壌が歴史的に整っているとよく言われる日本的に、「多様な価値観の是」がシリーズを通したテーマであるプリキュアさんは、国教としてふさわしい気が!
・ちなみに、僕のWEB小説、『夢守教会』の少女=教祖という設定も、上述のコペルで感じた「少女の神性」という所に原点がある感じです。