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 「私にはそんなものないわ」(黒川エレン)

 スイートプリキュア♪第23話「ザザーン!涙は世界で一番ちいさな海ニャ!」の感想です。
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 今回の見所ベスト1。

第1位:自分のビート

 僕的にアフロディテ様は「クロ」。

 少なくとも、

・一つのもの(や人)が見方によって多重に変わるというテーマ
・神話上のモチーフ

 から、アフロディテ様と幸せのメロディが作中是でOK万々歳ではない。アフロディテ様と幸せのメロディも、何らかの二重存在の可能性が高い(既に音吉さんが幸せのメロディと不幸のメロディを重ねたような演奏をしているのも、幸せのメロディ=作中解ではない感じがにじみ出ています)。

 そう考えると、最近ロックな感じで登場してきたキュアビートさんが何なのかというと、これは幸せのメロディに別な側面が出て来た時に対抗できる、「自分のビート」を掘り下げるため、という気がする。

 己の鼓動とか、自分の心に素直にといった話がここ数話出て来てるんですが、キュアビートが担ってるのはそれ。

 そもそも、「みんなが幸せになれる無謬の音楽」という幸せのメロディは、そうとう胡散臭い。そんな幸せのメロディによる同調化圧力が始まった時に、幸せのメロディ? 聞こえねーな? 俺は自分のビートを聴いてるからよ? という人が必要。たぶんそれがビートさん。

 幸せのメロディは、学校教育の学校主催の合唱コンクール的なイメージ。みんなで模範的な課題曲を歌いましょう。それが幸せです。確かにそれが幸せな時があるのを否定しないのですが、世の中には、合唱コンクール? 居づらいよ! 俺のビートはロックなんだよ! と学祭のステージでBLANKEY JET CITYをかき鳴らしたい少年もいるのです。僕は、ロック少年の側に立ちたい。

 そういう点で、今回もエレンさんはハミィや響、奏が繋がっていたい存在だという自分の本心は認めたけれど、それがイコール「エレンは幸せのメロディサイドになった」とは描かれていないのがポイントかと思います。

 境界に隔てられた陽が当たる場所と暗い場所とで、響、奏とエレン、少年を分けたりと、「敵味方、境界の区別」演出が顕著な回でしたが、エレンが光の側にいった話だったのかというと、そうでもない感じ。エレンさんは単に自分のビート(本心)を認めただけで、それがハミィ達と繋がりたいという気持ちだったというだけ。それどころか、幸せのメロディを例に「大好きなものも嫌いになる」ということをわざわざ指摘していたりする。これはもちろん、暗に逆説として「嫌いなものも好きになる」が含意されてるように思われます。

 つまり、組曲だけに「調和」とかそういうのが焦点の作品なんですが、みんなで規範的な無謬の幸せの音楽を歌って調和できれば、合唱コンクールで仲良くなれればそれでいいのかというと、スイートのテーマはもう一階層深くて、「ロック少年とも調和できまいかという発想も模索しないと」という所まで踏み込んでいます。それを押し進めていくと、お母さん回の街の音楽や前回の自然の音楽のように、それぞれの自分のビートを尊重しながら、調和できなければ、となっていきます。これは、自分のビートを押し殺して同調化圧力に屈して体面上の模範的幸せを演奏するよりも、とても難しい。でもおそらくこの作品が問いかけている方向性は、そっちの方。

 盛り上がってきました。上記の文脈から、幸せのメロディ? 知らないな! と言うが如く今までの空気を読まないでロックをかき鳴らすビートさんが面白いのでした。みんなが幸せのメロディの歌い手という「解答」を信じてそれを目指して競争していれば都合が良かったのに、「自分のビート!」とか言いだしやがった。このやっかい感。惚れます。

→毎年夏の例のムック

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