ここ数話で『ドキドキ!プリキュア』が「リンクによる愛やリソースの伝導の双方向化で『幸福の王子』バッドエンド(王子は一方的に宝石を渡して回っただけで街の人達には伝わってなく、本人は溶鉱炉行き、残ったのは街の人達の自己中心的な喧騒)を回避する」物語だというのが見えてきた気がしてここ何回か文章を書いているのだけど、今日はじゃあ『幸福の王子』バッドエンドが示唆されつつ、それを塗り替えるトゥルーエンドを目指すような構造の物語だとして、何が分岐条件なのか、という辺りを書いてみるのです。


1点目

 は、既にこの記事、


プリキュア雑記(2013年9月19日"台座の下のリンク")


 で書いた通り「当事者意識の有無」だと思っていて、劇中のバッドエンド『幸せの王子』解釈が、王子が台座の上から一方的に宝石を配って街の人達を助けていた感じだったのに対して(つまりディスコミュニケーション状態)、マナさんは台座の下の地面を、当事者として人と人の間を行ったり来たり走ってくれる主人公だった、と。
 相田という姓自体が「間(あいだ)」を連想するような感じにしてるのではとは前から書いていたし、第1話冒頭が印象的に人と人との間を人助けのために走るマナさんの絵だったのも、その方面の「地面を走る幸せの王子」的な表現だったのかな、と。

 さらに、逆にディスコミュニケーション、分断状態を比喩する表現は劇中に沢山あるのだけど、一番は「高低差」と「扉」。第一話も、エレベータのドアが閉まって真琴がタワーの上(高い所)に上がって行っちゃうシーンが、印象的に「まだこの時点ではマナと真琴はディスコミュニケーション状態だ」という比喩で入ってるのだと思うのですよ。それを、マナさんが走ってタワーの上まで登っていく。ディスコミュニケーションを解消する。リンクを繋ぐ、というのが第一話でもある。

 あるいは、最新の第33話も「幸福の王子バッドエンド回避への示唆」が描かれてる点でここ数話の流れだと思うけれど、やっぱりディスコミュニケーションの比喩である「扉」を超えて、マナが当事者としてありすの所まで入ってきてありすを助けた(出会いのシーンね)というのが、分岐条件として描かれていると感じました。

 そういう訳で、扉の外から、あるいは台座とかステージの上から、一方的にディスコミュニケーション状態のまま愛や宝石を配って人助けするのじゃなくて、当事者として会いに行くこと。これが「幸福の王子バッドエンド」からの分岐条件として描かれていると一つは感じます。それが意志として結実したのが第31話で、悲しい事があったあの場所(トランプ王国)に対して、自分がいるこことリンクしてると、自分も当事者であると、作品縦軸でも重要な「当事者意識」にマナさんが達したと。今までも地面を走ってる感じだったけど、本当明確に台座から降りたと。だからラブリーパッド(リンクからリソースが追加できる、象徴的なバッドエンド回避アイテム)が使えるようになったと。

 先のリンク記事でも書いたけど、第五話のステージの上とステージの下が比喩になってるマナと真琴のやりとりは本当凄いですね。この時点では、どちらかというと真琴の方がステージの上から一方的に歌ってる「バッドエンド幸福の王子」的なポジションなのね。そして、この時点ではやはりアン王女に歌が届いていない。それを、マナが自分で真琴に会いに行ってリプライ(返事)を返しているんですよ。劇中縦軸では一番疑似「幸福の王子」として描かれるマナさんが、ここではむしろ街の人側の立場から、歌ってくれていた王子(真琴)にリプライを返しに行っている。疑似的に、マナさんが自身で「街の人達が王子にリプライを返してくれる可能性」を体現しているシーンとも言える。

 また、ここのブログを読んでるような古くからのプリキュアシリーズファン的には、やっぱり「あなたに会いに行く」の『プリキュア5GoGo!』の物語を、この分岐条件では思い出す人も多いと思うのですよ。あれは、今思うとフローラさんはちょっと「バッドエンド幸福の王子」っぽいですよね。キュアローズガーデンという謎の場所から、一方的にメッセージを発してる感がちょっとある。そして、実際「種」を送ったシニフィエ(意味内容)は館長には伝わらなかった。ディスコミュニケーションだったという結末。フローラさんを台座の上のバッドエンド幸福の王子、館長を街の人(都合が良いことに『幸福の王子』劇中でもラストに王子の気持ちなんて伝わってない街の金持ちの自分勝手な様子が描かれていたりする)に見立てると、ほぼ見事に『バッドエンド幸福の王子』が完成しています。

 だけど、もちろん『プリキュア5GoGo!』では一抹の希望が描かれている。夢原さんです。夢原さんは、第1話で届いたフローラさんからのかなり一方的なメッセージに対して、50話近くかけて返事を返しに直接会いに行くんです。第47話(感想)の、


 「フローラさん、私達、来たよ」(夢原のぞみ)


 の爆涙度は異常。

 そして、10年目のディケイド的シリーズとして、これまでのプリキュアシリーズの様々な要素を汲んで構成されてるフシがある『ドキドキ!プリキュア』という作品。ちょうどRubyGillisさんがTwitterでこういうツイートをされていたけれど、「幸福の王子バッドエンド」を回避して、第32話の後夜祭のキャンプファイヤー的な「楽しい未来」に入り得る分岐条件その1は、つまり夢原さんだって感じだと思うのです。

 最近書いていたように「過去のリソースの現在への追加」も主題に含まれているフシがある『ドキドキ!プリキュア』という作品。単体の「幸福の王子」(たとえばマナさん一人。たとえば『ドキドキ!プリキュア』という作品一つだけ)では成せないバッドエンド回避も、過去の夢原さんテーマと合流したのなら、できるのかもしれないとか、そういう話。


2点目

 は、既にこの記事、


プリキュア雑記(2013年9月5日/テーマが光り始めるこの時期)


 でかなり書いたのですが、「一人でやるのではなくみんなでリソースを追加したり調整したりする」ですかね。当然、一人でやろうとすればバッドエンド側に分岐し、みんなで協力しようとすればトゥルーエンド側に分岐にする感じで。

 この点は、物語当初マナさんは「一人で何でもできてしまう」存在というのが強調されて描かれてる感があって、結構これまでの物語でもシーソーゲームして描かれていたと思うのですよ。上のリンク記事に書いた通り、その時点で一般人だった六花に対して「手伝って」と最初のリンク、最初の他者の助けを希求をした第2話は明らかにトゥルーエンド側に分岐する方向のシーンですが(この時点では街の人に過ぎなかった六花を、立ち上がってくれる存在だと信じた。)、例えば、第11話(感想)は結構あぶなかった。マナさん、一人でアイちゃんを助けに行っちゃうんですよ。結果的には今から観返しても理想的にソフト部員の子の方が奮起してくれるのですけど、この時点でどれくらいマナさんが街の人たるソフト部員の子を信じていたのかは危ういような描かれ方だったと思う。そういう意味で、この分岐条件に関してはけっこうシーソーゲームな所があった感じ。「君を信じる。ために戦う」のOP歌詞が重い。

 それが、途中で後であげる自己愛と他者愛の折り合いの物語があった末に、第31話で、明確に「一つ、みんなで力を合わせれば不可能はない」をマナさんが口にすると言う。第31話も本当重要回ですね。ここで、この分岐条件も明確に、「一人ではなくみんなでやるマナさん」に分岐している。

 過去作との関係は言わずもがなですね。そもそもプリキュアシリーズは第三作までは作品題が『ふたりはプリキュア』であり、「一人ではなく二人」が主題だった作品(『映画ふたりはプリキュア Splash☆Star チクタク危機一髪(感想)』の「だからプリキュアは“ふたり”なの!!」に至るまでの流れとか、熱いですよ。)。この分岐条件も、過去のシリーズを汲むフシがあるドキドキさんの流れにそってる感じですね。


3点目

 が最近考えていたことなんですけど、なんでこの作中解が明示されはじめているがごときここ数話の前に、キュアエース登場以降に六花、ありす、真琴の個別回で「自己愛と他者愛の折り合い」というのを描いていたのかというと、やっぱりこれも分岐条件なんじゃないかと。

 つまり、分岐条件3、「幸せの王子的な次の通りすがりのヒーローを生み出すような存在になったり、幸せの王子から受け取ったものを返事として"次"に返していけるような存在になるには、"自己愛と他者愛が折り合えてる境地"には達してからじゃないとできない」

 自分のことが解決してないのに、他人に次のヒーローになってもらうとか、愛をくれた人に返そうとか、その次の「他人も関係する」ステージには進めないよな、みたいな話。

 「やりたいこと(自己愛)、やれること(実現するための現在の能力)、やるべきこと(他人から求められていること:他者愛)」が、一致している境地に辿り着けた人が、次のステージに行ける資格を有するのだと思うのです。

 また、ここが街の人がジコチューになるのか、プリキュア的な次の通りすがりのヒーローになるのかの、分岐条件のようにも思う。

 第24話が真琴が自分がやりたいこととしての歌(自己愛)と、多くの他者(街の人達)の幸せ(他人から求められていること)とを、一致させる境地に進むお話。第26話が、競技かるたととかで迷ったのだけど、最終的に自分のやりたいこと(自己愛)として他者も助かる(他人から求められていること)のが医者を目指すということなんだ、という境地へと六花が進む話。ここを一致させられた人は、やっぱりプリキュア的な、その次、他人に愛を与えるとか、受け取った愛を次に返すとか、そういうステージに進めるよな、と。

 逆にここを超えないで進もうと思っても、たぶん難しい。

 ここを一致させられない苦悩、越えられない苦しさ、そこにちょっと負けてしまうとジコチューになる、とも描いてるように思うのですね。第33話のヘリコプター操縦士も、自分が飛びたいルート(自己愛)と、仕事として他人に要求されてるルート(他人から求められていること)が一致してないのが、ジコチュー化の底にある気がします。

 そう言われると、第32話で、理想的にマナさんから伝導された愛を返すために立ち上がってみせた二階堂くんも、直前の客引きではかなりだるそうにしてるんですよ。自分がやりたいこと(自己愛)と客引きという役割(他人から求められていること)が一致していない。だから、もしかしたら二階堂くんが、客引きなんて辞めちゃえよとそそのかされてジコチュー化していた可能性もある。

 だけど、最終的には、「やぐらの再構築」ということが、二階堂くんのやりたいこと(自己愛)とみんなに必要なこと(他人から求められていること)として一致して、その時彼は、次の通りすがりのヒーローとして、輝く。

 本当、街の人がプリキュア的次の通りすがりのヒーローになるのか、ジコチューになるのかは、この分岐条件あたりで紙一重なんだな、と。

 多くの街の人々たる我々一般視聴者は、なかなかこの段階が越えられないと思うのですね。去年のテーマが「自分がプリキュアに(的な一人の自身が主人公としてのヒーローに)なる」だったと思うのですが、その辺りのテーマの進展かなと。「次の通りすがりのヒーローになる」には、どこかでこの自己愛と他者愛の折り合いをつける、という境地に達することが含まれる。だから、作品解が描かれ始める前のキュアエース登場以降辺りの話数で、この自己愛と他者愛のテーマをやっていたと思うのですね。

 中々難しい部分ですが、例えば第32話でジコチュー化した喫茶店で大声で喋っていた少年は、講談家を目指してみる、とかね。自分のやりたいこと(大声で喋りたい)と、他人から求められること(大きくはっきりした声で楽しい話が聞きたい)が、一致させらる地点が、誰にでもどこかにあるはずだ、と。第32話でマナさんが言っていた、「みんなそれぞれ出来ることとできないことがあると思うの。」の部分です。そこを目指して少しずつ移動していくことが、プリキュアというか「次の通りすがりのヒーロー」になっていくための分岐条件なのかな、と。それが、街の人視点からの、まずは「君を信じる。ために戦う」の戦いなのかなと(歌詞のこのフレーズの僕の解釈はこちらの記事参照)。

 ◇◇◇

 最後に、いくつかの分岐条件を超えて、「幸福の王子バッドエンド」は覆し得ることは示唆された、じゃあ、物語後半、終盤として、その「楽しい未来」を実現するために、打倒しなければならないもの、というか乗り越えなければならない課題として、何が描かれそうか、という点について少し。

 これは、やっぱりマナさん(「幸福の王子」)とレジーナ(ある種の「街の人」代表)との関係に収斂していくのかな、と。

 「幸福の王子」の愛が伝導して、街の人も立ち上がってリプライを返してくれれば、「幸福の王子バッドエンド」は回避し得るのは、分かった。でも、レジーナは、


1. 幸せを伝導されてとまどう、というか苦しいような存在である。
2. 例の赤い目の現象が起こると、愛の伝導が阻害される。


 という点で、ここに来てなお、「幸福の王子」の愛が伝導できない課題が描かれているキャラクターだと思うのです。

 「1」は第22話の、


 「ポカポカしてるのに胸が苦しい」(レジーナ)


 ですね。愛の伝導が「幸福の王子バッドエンド」回避の鍵だけど、愛が伝導されて苦しいような子もいる。これをどう超えていくのか。

 そして、「2」は、例の赤い目の現象は少し考察も書いてきましたが、何らかのかたちでキングジコチュー様が関わってる現象である点までは確かなのかなと。

 「親からの搾取」とか、そういうのを比喩してるのかな、とは何となく感じ始めています。幸せの王子が愛を伝導しようとしても、それよりも強力な親からの搾取を受けていて受け取れない、という子は、あり得る。

 理想的に「幸せの王子」マナさんから受け取った愛を糧に強くなってみせたありすが描かれる第33話が、「ありすパパがありすの意志を尊重する話」でもあるのに対して、赤い目現象でマナさんからの愛が無効化されてしまう時のレジーナが、キングジコチュー様から自分の意志を奪われてるかのようなのは、対照になってる気がするのですね。それを、どう乗り越えていくのか。

 という訳で、「幸福の王子バッドエンド」を回避して「楽しい未来」をみんなで掴むまでには、かなりの分岐条件は超えてきたのだけどまだ劇中に課題もある。『ドキドキ!プリキュア』、終盤戦も楽しみです。

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→前回:ドキドキ!プリキュア第33話「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」感想へ
→次回:ドキドキ!プリキュア第34話「ママはチョーたいへん!ふきげんアイちゃん!」の感想へ
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