「何があっても大丈夫だって思えてくる」(菱川六花)

 ドキドキ!プリキュア第34話「ママはチョーたいへん!ふきげんアイちゃん!」の感想です。
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 今回の見所ベスト1。


第1位:親からの愛

 幸福の王子的な人(代表はマナさん)から愛が街の人達に伝わり、その結果街の人達が立ち上がり、王子に返事を返し、次の人達にまた愛を伝導できる通りすがりのヒーローになれたなら、世界はもっと優しくなっていくのに……というここ数話で描かれ始めている『ドキドキ!プリキュア』という作品の中核。今回は最初に愛を伝えてくれた存在として、親の存在がある、という話でありました。マナ母や六花母から愛がマナさんや六花さんに伝導する、マナさんや六花は幸福の王子とツバメとして、その次の街の人達にまた愛を伝える。そのリンクの連鎖が、楽しい未来への鍵でしょ的な話。そして、一般的に「街の人」たる普通の人にとって重要なのは、親から愛を受け取ること、そして受け取った愛を次は子に伝えることで、その象徴として作中ではアイちゃんが機能してる、と。

 幸せの王子の宝石の配布、愛の伝導は街の人達に届いてなかったんじゃ? ディスコミュニケーションだったんじゃ? というバッドエンドへの暗示が背後について回ってる『ドキドキ!プリキュア』という作品。今回は伝える対象は街の人というか子のポジションであるアイちゃんなんですが、これがやっぱり中々手ごわい。何を訴えてるのか分からないし、愛を伝えたからといって伝え返してくれるのかもよく分からない。でも、だからといって放棄してディスコミュニケーション状態でいいや、とか逆に子から搾取してしまえ、となっては当然未来はバッドエンド側に分岐していくわけで、マナさんたちの地道にアイちゃんを理解しようと努める様子やこちらの愛を伝え続ける様が描かれる。アイちゃんに関しては登場当初は、まだマナさんたちとアイちゃんはファッション親子、なんちゃってリンクとして描かれてると書きましたが、物語もこの話数になり、ここの関係も本物のリンクになっていく漸進が描かれ始めている感じ。『幸せの王子』バッドエンドとハッピーエンドの分岐条件は何なのだろうという長めの文章をこの前書きましたが、これは1(当事者意識、コミュニケーションの双方向化)の進展という感じ。まずは、親から子への愛、子から親への愛のリプライ、そしてその次の誰かへのリンク、これが、ハッピーエンドへの分岐条件。

 プリキュアシリーズ自体が、フレッシュ以降は特に、この「親からの愛」を最後の切り札、勝利条件として描き続けていると思っているのですよ。フレッシュは桃園母から愛を受け取っている桃園さんがせつなさんまで救ってみせる構図だし、ハートキャッチも沢山の心に傷を抱えた登場人物たちが出てくる中、花咲さんだけ最後までデザトリアン化しないでちょっとだけお助けする通りすがりのヒーローたりえたか、と言ったら物語開始時点で、既に両親の選択で孤独を回避してるからだと思うし。スイートで響さんが筋トレのような近代的な分かりやすい強さから音楽で伝えていく方に歩み始めるのはお母さんから愛されていたのを自覚するイベントが入ってからだし、スマイルのやよいさんエピソードが親からの愛の伝導を、ピースが次に伝えていく話なのは顕著。


 「何があっても大丈夫だって思えてくる」


 親からの愛の伝導こそが最後の切り札。最高の武装。だから我々一般人が幸福の王子的通りすがりのヒーローとして立ち上がれるかどうかという話。まずは子に愛情で接することなのだ、とずっと伝え続けているシリーズかと思います。愛情を受け取った子供は、次の通りすがりのヒーローとして、次の誰かに愛を伝導できる存在、立ち上がれる存在となる資格を有するから。

 そして、おそらく物語縦軸では、子供ポジションとして、アイちゃんとレジーナが重なる感じになっている。幸福の王子ハッピーエンド理論の基礎理論はできた。分かった。でも中々愛を伝えることができない存在もいる、という話。

 前回がありすパパが子のありすの意志を尊重する話で、今回が親から子供への愛の伝導の話。となると、レジーナは現時点でそれを受け取るのが難しい側なんだろうなと。キングジコチュー様に意志を奪われているかのような描写で、親的な存在から十分な愛を受け取ってこられなかった子供。そんな存在にも、幸せの王子相田マナの愛は届くのか、というのがたぶん終盤のかなりの見どころ。

 『幸福の王子』における街の人達ポジションのキャラクターも劇中に沢山出てきますが、愛を伝えらてリンクが双方向化できたらプリキュア的な次の通りすがりのヒーローになり、伝えることができなくてディスコミュニケーション状態のままだとジコチューになる、そこは紙一重的な構図。

 だから、この前この記事で解釈を書いたようなオープニング歌詞の「君を信じる。ために戦う」が響く。今話も六花からアイちゃんへの、


 「でも信じてほしい」


 が入りましたね。街の人、子供ポジションの人から、幸せの王子、親の人ポジションへの「信じる」。逆に、幸せの王子や親から、街の人、子供への「信じる」。両方ないとリンクが双方向化せず、ハッピーエンド的未来、『幸福の王子』バッドエンドを回避したトゥルーエンド的未来をみんなの共有体験未来にはできない。

 アイちゃんが笑うとプリキュア側の力になり、泣くとジコチュー側の力になるのは、設定として今後分かりやすく明らかにされるかはともかく、比喩としては解釈可能な気がするのですね。街の人とか、子供のポジションがアイちゃんなのだから、リンクが繋がり愛が伝導すればプリキュア側になるし、ディスコミュニケーション状態で泣いていれば、ジコチュー側に近づく。というような。

 親が子を愛する、という当たり前だけど大事なことが、物語的にドラマチックに描いてきた幸福の王子と街の人の構図にかかりながら、ハッピーな共有体験としての未来をみんなでつかんでいくためにも必要なんだ、という所にまで繋がっていく、ミクロからマクロへ的な部分が綺麗な作品だと感じています。

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→前回:プリキュア雑記(2013年9月23日"『幸せの王子』バッドエンドからの分岐条件と物語終盤の打倒対象")へ
→前回:ドキドキ!プリキュア第33話「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」感想へ
→次回:ドキドキ!プリキュア第35話「いやいやアイちゃん!歯みがき大作戦!」の感想へ
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