ドキドキ!プリキュア第38話「ベールのたくらみ!アイちゃんジコチューになる!?」の感想です。
映画は初日に観てきて感想もアップ済みですが、毎回のごとく、二週くらいは感想記事中で映画の「コアな」ネタバレはなしの方向で(軽くは触れちゃいます)。その後は普通に言及していきます。
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今回の見所ベスト1。
第1位:親的存在から何が伝わるか
幸せの王子−街の人達−その次の誰か
で描いていたものが、徐々に、重なりながら
親(的存在)−子−その次の世代
の方の比喩により焦点があたってきた感じですね。
左側の存在からリンクを経由して愛が伝導していけば世の中はどんどん良い未来に近づいて行き(「次の幸せの王子」がどんどん生まれてリソースが追加されていくから)、リンクが途絶えたり自己中な喧騒が伝導したりすると、世界はどんどんバッドエンドに向かって行く、と。
今回は子のポジションのアイちゃんが、(今話においては)疑似親的存在のベールたちからジコチューを注がれた結果ジコチュー化し、でも最終的に疑似母親にして幸せの王子たるマナさんからの愛がより伝導して、愛を取り戻す、と。この辺りはやっぱり映画観て欲しくなりますね。
「忘れてしまっても、信じてるから。」(相田マナ)
は深いですね。オープニングでも印象的な「信じる。」ワード(参考:歌詞の解釈記事:プリキュア雑記(2013年9月16日"二階堂くんのポジション"))。
たぶんですが(と言いつつ映画を見た後でしみじみと噛みしめてる)、母親にして幸せの王子視点から、子や街の人に一生懸命愛情を注いだとしても、母親である自分はやがて忘れられ子は未来へと進んでいく、幸せの王子は街の人達から忘れられ溶鉱炉行きになる……でも、それでも「信じる。」くらいが含意されているのですよ。子が、次の街のヒーローが、次の誰かを助けていくとして、全員は助けられない。愛を注いだ自分が選ばれずに、置いていかれるかもしれない。忘れ去られるかもしれない。それでも「信じる。」よ、と。それが愛だと。
そこまでの愛を伝導されて、アイちゃんも何やら次のステージへ。愛を伝導された存在は次の通りすがりのヒーロー、次の幸せの王子になれる、というドキドキ!理論。伝えてくれた存在を忘れる時がきても、どうか未来の次の誰かに伝えていって欲しい。
という所で、第3クールでは疑似的な子というか、愛を伝えてあげる存在として描かれていた亜久里とアイちゃんと対照されるように、一度は他者愛に目覚めた辺りまでいったようなレジーナが、すっかりと再びジコチューに染まったかのような装いでいよいよ本格再登場(纏ってる服の色が、アイちゃんがジコチューに染まった時のハートの色っぽい)。卵の中に閉ざされていた所から、ヒビが入って世界に開けて、マナさんに、他者に出会ったアイちゃんと、同じく球体のようなものに包まれながら、おそらくはキングジコチュー様とレジーナだけの閉じたセカイ系の中に埋没していたレジーナ、という対照はいいですね。例えば第33話のありすパパとありすの関係にまつわる主題のような話。幸せの王子マナと出会ったありすは変わり、ありすパパはありすの自主性を尊重する。ありすは扉を開けて外の世界へと歩んでいく。一方でキングジコチュー様はレジーナを閉じ込める。幸せの王子(&母的存在)の有無と、リンクが繋がってるか閉ざされているか。後者のような文脈にいる子(レジーナ)にも、果たして幸せの王子マナさんの愛は伝わるのか。ドラマが最終章に向かって盛り上がってきていると思います。
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→良い歌でした
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