「くだらなくなんかない」(キュアハート)

 ドキドキ!プリキュア第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」の感想です。
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 今回の見所ベスト1。


第1位:有限のリソース


 「この世に永遠の愛など存在しない。いずれ輝きは消えて灰のように崩れ去る」(キングジコチュー様)

 「そんなこと、ない」(アン王女)


 の冒頭の会話は見ごたえがありました。映画が、まさにキングジコチュー様の主張をどうやって乗り越え得るか、という話だったわけで、伝承される愛というその解答が、今話の主軸にもかかってる、という一話。

 ドキドキ!プリキュアはプリキュアディケイド的にこれまでのプリキュアシリーズの要素を意図して取り込んでる仮説、少し前から書いてましたが、やっぱり終盤の亜久里とレジーナの話は、『ハートキャッチプリキュア!』の月影ゆりとダークプリキュアの話の先を見せる、ということのように感じています。


 「私は魔女。ケーキを食べそこなった魔女よ」(レジーナ)


 親の愛情という有限のリソースを奪い合う関係にあった月影ゆりとダークプリキュアの物語を本歌取りする感じで、亜久里とレジーナも何かしら有限のリソースを奪い合う関係にあるのだろうと。ケーキ(有限のリソース:たぶん愛情の比喩)を食べられた者(亜久里)と、食べられなかった者(レジーナ)、そこは奪い合うしかないのか? というリアル世相も意識させられる問題。背後の物語性が豊穣になってきたので、今話も含めてレジーナ様VSキュアエースはゾクゾクしますね。ミラクルドラゴングレイブを持ってからのレジーナ様のアクションの絵的なコンテのカッコ良さも相成って、ガチ闘争という感じです。

 で、『ハートキャッチプリキュア!』っていうのは、ゆりさんもいつきもえりかも、姉妹(いつきは兄妹)で何かしら有限のリソースを奪い合う関係にあって心の花が危機だったのを、一人だけ物語冒頭時点で親の決断で、愛が充分にあったつぼみが救済する(通りすがりの手助け程度しかはできないのだけど)、という物語構造だったと解釈してるのですね。だから、つぼみだけは妹が生まれても、有限のリソースを奪い合って嫉妬したり闘争したりとはならず、祝福するんです。

 その『ハートキャッチ』で描かれた解法を、よりリファインして10年目作品として描く、という感じでしょうか。つまり、映画で描かれたようにお祖母ちゃん、お母さんから愛を伝承している(おまじない、口癖など)マナさん(つぼみポジション)が、月影ゆりとダークさん状態の亜久里とレジーナの問題を、なんとか救済すると。

 いや、作中で通底させてるテーマ上、マナさん一人(一人の「幸せの王子」)ではダメなのか。マナさんという幸せの王子から愛を伝承されて立ち上がった通りすがりの次の幸せの王子たちも含めて、問題を何とかしてみせる、と。

 本物のお祖母ちゃんからの愛の伝承を纏ってるマナさんと、どちらもお祖母ちゃんやお母さんに関しては何らかの虚構存在っぽい亜久里とレジーナが対照だと思うのですね。その虚構性の一角、亜久里と亜久里のお祖母ちゃんとは血は繋がってないのだけど、それは虚構で偽物なのか? というのがたぶん次回の話。

 で、その今話冒頭でキングジコチュー様が否定し、アン王女がそんなことはないと返した「永遠の愛」、おそらくは「伝承される愛」に関して、最後に焦点が当たるのは親から子への愛であるから、それはもしかしたら亜久里やレジーナのような虚構的な存在たちすら救い得るかもしれない本当に大切なものだから、マナさんは早くは物語第3話時点から、六花の家族の親と子の愛のリンクである「手紙」を守ったりしていた、と。

 これ、最後、「リンクの守り人」にして元祖「幸福の王子」、マナさんも活躍するんだろうな。次の幸せの王子たる街の人達がマナさんの方を救う、第32話(学園祭エピソード)とか映画も良かったけれど、最後はマナさんに主人公キタ! これが2010年代型ヒーローだ! みたいなターンがあるのに期待。「相田マナ」は今年一番カッコいいと思ったヒーローでした。

→川村敏江さん



→レジーナ様



→映画を観てきた感想はこちら:『映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!』の感想へ(ネタバレ注意)

→前回:ドキドキ!プリキュア第41話「ありすの夢!花がつないだともだち」感想へ
→次回:ドキドキ!プリキュア第43話「たいせつな人ヘ!亜久里の授業参観!」の感想へ
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