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 『魔法つかいプリキュア!(公式サイト@朝日放送公式サイト@東映)』第36話「みらいとモフルン、ときどきチクルン!って誰!?」の感想です。
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 今夏、新作オリジナル小説『こちら街アカリの復興部!』の執筆にかかりっきりだったため、感想を書かないでいた分を書いていきましょうシリーズ。

 今週はRubyGillisさんも久々に感想を書いてるので、今回は間をちょっと飛ばして最新話分を書いてみます。

 最近、娘さんがプリキュアさんに反応し始めたRubyさん。

 リアルでは旧東映アニメーションのビルが解体される前に近くで会って、「(その頃)奥さんがふなっしーにハマってる」という情報を聞いて以来会ってませんが、毎年プリキュアさん最終回後の業火(豪華)メンバーによる秘密チャットでは話しています。

 最近はプリキュアさん仲間というより、『スクスト(公式サイト)』で毎月「協力戦」イベントを共に戦ってる仲間みたいな感じがしてきておりますが(え)、一年七か月頑張ってきた僕のATK値が現在MAXで50万ちょっとなのに対して、二か月だけ早く始めたRubyさんはATK値MAXだと100万超えとかしています。何かが、おかしい! いや、「協力戦」の時とか救援ですごいダメージ敵に与えていってくれるんでありがたいんですけど……。

 さて、今週のプリキュアさん感想です。飛ばした分は、おいおい書いていくつもりでまだおります。(特にアレキサンドライトスタイル登場回の第31話の感想は書きたいので)

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 初代『ふたりはプリキュア』〜『Yes!プリキュア5GoGo!』の頃のプロデューサーであられる鷲尾天氏が本格的に関わっている本作。

 あんまり、作品の思想的なバックボーンとかについてはダイレクトには書いてこなかったのですが、鷲尾天氏に関しては明確に語っているインタビューも存在するので、以前にこういう記事を書きました。↓


鷲尾天氏のエッセンス〜均質化に向かう世界で「見え方が変わる」を守るということ―魔法つかいプリキュア!第15話「ハチャメチャ大混乱!はーちゃん七変化!」の感想(ネタバレ注意)


 ざっくりとは、敵側が「(間違った)グローバル化偏重」で、プリキュア側が「それに抵抗する日本的価値観」というような構図で(物語上の)配置を作っているのだろう、というような話です。

 で、そうなると歴史的には敵側が西欧文明って感じになるのですけど、プリキュアシリーズはもう少し深く、その西欧文明を形成している元になる哲学・思想くらいまで掘り下げていて、それはざっくりとは、合理主義偏重です。梅原猛氏によれば大本にはデカルトの存在があるし、中沢新一氏など(両者、現代思想の超一線の人です)のタームなら「ロゴス」的な原動力で動いている力、ということになります。

 明治期に一度、合理主義に基盤を置いた西欧文明の帝国主義(の段階に達した資本主義)にパワーゲームに持ち込まれた日本は、自身も合理主義に基づいた富国強兵策を取って対抗した……という歴史的経緯があるのですが、そのころの情勢と、昨今のグローバル資本にパワーゲームに持ち込まれて劣勢の日本……という構図が重なる、というのは、現在広く色んな人が既に指摘しておりますし、僕も、「見え方」として確かに重なるなぁと思っております。

 で、その日本に襲ってきている西欧文明的、デカルト的、ロゴス的なもの、というのをもうちょっと解体してみると、思想・価値観として大きいのは「二項対立」で、「存在」を「有情―無情」で「分類」する、という世界観を取ります。

 このうち、「有情」に入るのが「人間」と「動物」なのですが、『魔法つかいプリキュア!』は前半二クールまでが、この「有情」の中での二項対立の構図だったのが分かります。

 味方側が「人間」で、敵側(ドクロクシー様サイド)が「動物」です。敵さん側、コウモリ、クモ、亀、ヤモリと「動物」ですよね。

 敵さん側の「動物」ラインナップが、バットマン、スパイダーマン、タートルズに置き換え可能なので、「西欧側のヒーロー」という見え方と「動物を『有情』に含める段階で安寧している西欧思想」という見え方の二重の意味で、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な敵さんサイドだったと思います。

 なのですが、前半戦最終戦でプリキュアさんが絶対絶命になり、そこで登場してきたのがはーちゃん(=植物)です。はーちゃんは花がモチーフなので、これ、「人間」、「動物」、ときて、「植物」のシンボルなのだろうと。

 この、「人間」と「動物」だけじゃなくて、「植物」にも「情」を認めよう、「たましい」のようなものを認めようというのが、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という「日本的な」価値観です。「たましい」っていうか、「仏(ほとけ)」様にだってなれるよ、というか仏様だよ、みたいな考え方なのですが。

 ちなみに、これはベジタリアンの方が普遍性を主張されてる時に、それを論駁する際に使える価値観だったりもします。ベジタリアンの方の思想は、「人間」と「動物」には「情」がある、けれど「植物」にはない、だから「植物」は食べてOKという論理展開なのですが、それは二項対立主軸のデカルト的、ロゴス的論理で、ブディズム(仏教)の影響が大きい、より拡張された東洋の、日本の論理体系にパラダイムを広げると、いやいや、「植物」にも「情」あるよ、という話に持ち込めるわけです。

 なので、前半戦の山場のドクロクシー様戦は、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的思想にパワーゲームに持ち込まれて絶体絶命になったところを、「植物=情」=「はーちゃん」登場という日本的思想で逆転する、という構図でもあったわけです。

 これは、見方を変えると「トーテミズム」という学問領域の話であって、これは、「人間―自然」を二項対立で分離する西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な世界観に対して、人間と自然を必ずしも分離しない考え方です。それどころか、この地上にいる「私」という人間は例えば地下世界にある「ヤムイモ」と「たましい」のようなものを共有している、という世界観になります。ここでは、「私」は「人間」であり、「ヤムイモ」でもあります。

 この「トーテミズム」こそが、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な世界観を乗り越えるために南方熊楠なんかが注目していた概念であって(ちなみに、熊楠は、動物の王=熊の名と植物の楠の名を「同時に」冠していた自分の名前に非常に哲学的な意味を見出していました)、近年でもブディズム(仏教)、特に大乗仏教(『龍樹(ナーガールジュナ)など』)と接合して西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な世界観を乗り越えるパラダイムを構築しようという思想的動きがあったりもします(前述の中沢新一氏など)。

 そういうのも踏まえると、はーちゃんの正体は「植物(花)」に誰かの「たましい」が宿ってる的な存在なのかな、と。花火の回の第28話「魔法界の夏祭り!花火よ、たかくあがれ!」で、はーちゃんが花の声が聴こえるのは、そのためです。前述のヤムイモの例のように、花ははーちゃんであり、はーちゃんは花なので、そこに二項対立的な分離はない、という世界観を象徴化したキャラクターなのです。終盤で、実ははーちゃんの「たましい」は誰々のものと同義だった! と種明かしするのもミステリ的には面白いかもですが、基本的に子供視聴者を想定している作品作りからすると、「みんなの『たましい』が花に集積している(繋がっている)」くらいのアバウトな落としどころかなぁ、とも現時点では想像していたりもします。

 ちなみに、本作に限らず、プリキュアシリーズは実はずっと西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な世界観のオルタナティブ(代替案)を模索している作品群なので、少し前のシリーズにも、この「トーテミズム」的な要素は見られます。

 Blu-rayBoxがお金なくて(え)買えなくて、特典の冊子がまだ読めてないのですが、『フレッシュプリキュア!(感想)』で、ラブとせつな(イース)が、パラレルワールドのif存在同士という隠し設定があるという話は、公式にアイデンティファイされたのでしょうか。作品に関わってもいた田中裕太監督が、以前Twitterでそんな設定があると噂に聴いた記憶があるけど、確証はない、くらいにツイートしていた、という設定なのですが。ですが、僕は、この設定はその通りなのかな、と思っています。ラブとせつなはさきほどの人間とヤムイモ的な話の「トーテミズム」的な関係で、二項対立に分断未満の、「たましい」を共有してる存在同士なのかな、と。「全てのパラレルワールドを支配する」という、実に西欧文明的、デカルト的、ロゴス的な(それが帝国主義的と結びついた)目的を掲げていたメビウス様に対して、日本的な「トーテミズム」的な価値観・設定で結ばれた二人がそれを超克する、と、作品のテーマ的にもしっくりきます。

 さて、ここまでがまだ『魔法つかいプリキュア!』的には前半二クールまでの話で、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的に、二項分離はしないよ、「人間」、「動物」、「植物」、みんなある種繋がっている草木国土悉皆成仏だよ、という話でした。

 ここから、後半二クールでは、ついに、みんな大好きアニミズム(めっちゃざっくりとは「八百万の神様」的な世界観)が登場。これは、もちろん日本的な価値観です。「人間」、「動物」、「植物」のみならず、「物」にも「情」はあるよ、という段階にまで突入していくのですね。ここで、「情」が宿った「物」の象徴は、もちろんモフルンというキャラクターです。

 モフルン=日本的、草木国土悉皆成仏的、アニミズム的価値観の象徴なのです。それで、再び襲来してきた西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観に立ち向かう。そういう物語です。

 後半二クールが前半二クールと違うのは、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観側(敵側)が、オルーバさんを中心に、こちらの日本的価値観を探ってる、研究している描写があることです。その象徴として、今話ではモフルンとチクルンの「手繋ぎ」が印象的に描かれました。

 みらいとリコの「手繋ぎ」から始まった物語であるように、「違う世界との接触」を象徴する「手繋ぎ」です。オルーバさん、ええ!? 「物」にも「情」が宿るって、どういうこと!? って、一応日本的価値観に興味を持ってくれてるのだと思うのですよ。オルーバさん、西欧文明の内部にいながら、日本的、草木国土悉皆成仏的、アニミズム的価値観も研究していたレヴィ・ストロースみたいなポジションなのかな(学者キャラですよね)。それ、カッコいいな。それだと、リコさん(同じくどちらかというと学者キャラ)が西田幾多郎なり澁澤龍彦になったりで、応答するのですかね。それも熱いな。

 この日本的、草木国土悉皆成仏的、アニミズム的価値観で抵抗するという要素が、みらいさんが掲げている「ずっといっしょ」にも繋がっていきます。

 西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にパワーゲームで押し切られた結果、日本でも共同体が崩壊し、地域共同体は壊れ、家族共同体も劣勢で、会社共同体もほぼ機能しなくなりました。

 「自立は良いこと」「消費は良いこと」「効率化は良いこと」の大合唱のもと、核家族化を経由して、人間の「孤立化」が進んだわけですが、源泉は西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にに根差した資本主義の消費喚起のためのプロモーションにみんなが乗せられただけで、自立、消費、効率化、「それ自体に」普遍的な価値は別にありません。だから、そういう西欧文明的、デカルト的、ロゴス的、資本主義的、消費文明的価値観が「孤立化」を推し進める流れの世界の中で、大きな流れに反逆するように、みらいさんが「ずっといっしょにいる!」と叫ぶのは熱いわけです。第27話「Let'sエンジョイ!魔法学校の夏休み」(感想)とか、本当泣いたよね。

 ここまで歴史を、背景を構築した上で、秋の『映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!(公式サイト)』では、万感のモフルン師匠変身です。

 西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にパワーゲームで押し切られきってボロボロになった日本で、日本的価値観を、草木国土悉皆成仏を、アニミズムを、「物」に「情」があったってイイじゃん! って、「ずっといっしょにいたい」って言ったっていいじゃん! って、モフルン師匠が叫んでプリキュアに変身です。

 人魚の里回の第7話「人魚の里の魔法!よみがえるサファイアの想い!」が重要回だと気付いたという話を前回の感想(:「過去」の延長線上にない思いがけない「未来」を選ぶという人間らしさ〜魔法つかいプリキュア!第29話「新たな魔法の物語!主役はモフデレラ!?」の感想(ネタバレ注意))で書きましたが、それは、水の中を泳ぐものと思っていた人魚が空を飛ぶ的な話で、過去(西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観)の延長線上にはない、人間的な「思いがけなさ」を伴った未来を選び取る、ということです。「物」が変身したってイイじゃん! っていう、この「思いがけなさ」感は、「飛ばしてるな」と感じます。

 西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にパワーゲームで押し切られきってボロボロになって、刹那的な消費マシンにさせられてしまった我々が、そうじゃないんだ! 本当はまだあるんだ! という日本的価値観を叫ぶ、というのは、時代の要請です。『シン・ゴジラ』もそうでしょ。自然災害(ゴジラ)はどうしようもないけれど、その対応策として、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的なもの(原爆)を選ぶか、日本的なものを選ぶか、という状況になって、日本的なもので逆襲する物語です。遠景に、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にパワーゲームで負けた後を、我々は生きているという感覚。広義の「敗戦意識」が沈殿しているのも同じです。それでも! という物語です。だから、「ヤシオリ作戦」(モチーフはヤマタノオロチの日本神話から)なのです。「植物」にも「物」にも「情」が、仏性が宿っているんだから、「場」を焼き払ってめでたしめでたしにはできないんですよ。その方が合理的だから、効率的だからには還元できないのですよ。「物」に「情」が宿ったがごとく、無人在来線爆弾攻撃が火を吹くよ! 『シン・ゴジラ』好きな人は、『プリキュア』シリーズも好きでしょ!? 僕も好きだよ。

 そういう意味で、「ヤシオリ作戦」と「モフルン師匠変身」は、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観にパワーゲームで押し切られきってボロボロになってる我々が、日本的、草木国土悉皆成仏的、アニミズム的なものでもう一度立ち上がる、最後の叫びをあげるという意味では同義です。

 それはあくまで虚構で、リアルは厳しいことなのかもしれないけれど、そこは『ハピネスチャージプリキュア!(感想)』で、子供の頃の理想との再契約を掲げたプリキュアさんです。まだ、忘れたくないんだよ!

 最近、リアル世界で、熊が出没しています。


特集:クマ出没/朝日新聞デジタル


 「山」と「里」に二項分離して、熊は山、人間は里、というのは、ちょっと西欧文明的、デカルト的、ロゴス的価値観過ぎて、日本の場合、その中間の「里山」という場所があって、熊も人もオーケー的な、微妙な「境界領域」を形成していました。この「境界領域」こそが、日本的、草木国土悉皆成仏的、アニミズム的なものの核で、チクルンは、このプリキュア側(日本的価値観側)と敵側(グローバル偏重・西欧文明価値観側)を行ったり来たりする、「境界領域」のキャラクターとして出てきたのかな、と。

 「境界領域」っていうのは、「人間」も「動物」も「植物」も「物」も、分類と同一律と矛盾律と排中律に還元できるだけの話じゃないでしょ、全が一で一が全で、不生不滅で不断不常で不一不異で不来不出でしょ、草木国土悉皆成仏でアニミズムでしょ、という話で、そういうのを全部乗せて、映画ではモフルン師匠変身です。「物」が「仏」性を持つのです。

 既に泣けます。

 『Yes!プリキュア5GoGo!』の時に「夢原さんは神」を流行らせて(この感想記事)各所から怒られた僕が(え)、今度は「モフルン師匠はブッダ」を流行らせようと、今、邪悪な顔をしておりますよ……。

 最後に、全然関係ないのですが、地元宮城県は仙台が舞台のアイドルアニメ&リアルアイドルプロジェクト『Wake Up, Girls!(ポータルサイト)』が地元の勾当台公園でライブした時に、WUG!の前に出演されていた「リアクション ザ ブッダ」様というバンドが超イカしてたので、一曲張っておきますね。↓

 うんうん、グローバル化とネット社会化が、西欧文明的、デカルト的、ロゴス的力学にのっとって、パワーゲームの勝者にあらゆるリソースが一極集中するという弱肉強食的世界を出現させつつある中で、一極の上澄みだけじゃなく、自分が良いと思ったものを地道に紹介していくのも、草木国土悉皆成仏だね! モフルン師匠はブッダだね!

→Blu-ray

魔法つかいプリキュア! Blu-ray vol.1
高橋李依
ポニーキャニオン
2016-09-21


→『ハートキャッチプリキュア!(全話感想)』のBlu-rayBOXもきました



Amazon・ビデオでプリキュアシリーズを観る(初代〜ドキドキ!へのリンクまとめ)

→前回:魔法つかいプリキュア!第29話「新たな魔法の物語!主役はモフデレラ!?」の感想へ
→次回:魔法つかいプリキュア!第37話「魔法が決め手?冷凍みかんのレシピ!」の感想へ
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