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 相羽です。

 『ヒーリングっど♥プリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 主人公・花寺のどかの、一種の「悪」が描かれます。

 「悪」の定義は、赤松健先生の漫画『魔法先生ネギま!』から借りてきます。

 定義は、定義論自体にはほぼ意味はなく、この文章の目的で使う「悪」ならこの「悪」が有効だろうと採用しております。


「夕映さん…本当のことを言って下さい<中略>僕は 僕達自身の日常のために悪を行う それを逃れることはできないのだと」


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(『魔法先生ネギま!』第17巻 赤松健/講談社 より引用)

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参考:「魔法先生ネギま!」158時間目「誰もが未来を背負ってる!」/マガジン感想(管理人のメインブログ・ランゲージダイアリー)

参考:「魔法先生ネギま!」163時間目「have a break」/マガジン感想(管理人のメインブログ・ランゲージダイアリー)

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 自分を優先して、誰か(ダルイゼン)を助けないという意味での「悪」をなす花寺のどかさん。

 でも、物語全体からすると、ネガティブなニュアンスの描かれ方ではないです。

 そもそも、僕の感想では第1話の感想、


ヒーリングっど♥プリキュア/感想/第1話〜輪廻と地球と人体の循環を遠景に再び「犠牲を出さない世界」に挑む(ネタバレ注意)


 ……から注目していたように、花寺のどかさんはプリキュアシリーズでいう『幸せの王子』文脈に位置づけることができる主人公でした。


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●プリキュアシリーズにおける『幸せの王子』文脈とは?

 『ドキドキ!プリキュア(感想)』劇中で、主人公の相田マナさんがオスカー・ワイルドの童話『幸福の王子』の「幸せの王子」に例えられる連想・象徴で、あるテーマを視聴者に伝えていく作劇。

 自分を犠牲にして「街の人たち」に「宝石」を配った「幸せの王子」は、「街の人たち」が救われた一方で、王子本人は最後に溶鉱炉行きになってしまう。

 一人のスーパーヒーロー(=「幸せの王子」=「プリキュア」的な人)で世界は救えるのか? を視聴者に問う。

 『ドキドキ!プリキュア』では、終盤の第47話で「街の人たち」が立ち上がり、「幸せの王子=相田マナ」は犠牲にならない結末が描かれる。


参考:ドキドキ!プリキュア感想/第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」


 そのあとに続くプリキュアシリーズのいわゆる「『幸福の王子』三部作」、『ハピネスチャージプリキュア!(感想)』、『Go!プリンセスプリキュア(感想)』でもテーマ・モチーフが続きながら描かれ(『ドキドキ』→『ハピネスチャージ』は同・柴田宏明プロデューサーが担当)、それぞれかなりの程度踏み込んで解答が描かれる。

 『Go!プリンセスプリキュア』第47話で、特にプリキュアではない「街の人」の七瀬ゆいさんが自力で「絶望の檻」を破ったことで、いったんの決着をみるモチーフですが、その後に続くプリキュアシリーズでも、繰り返し連想的に使われ続けている題材です。

参考:Go!プリンセスプリキュア/感想/第48話「迫る絶望・・・!絶体絶命のプリンセス!」(ネタバレ注意)

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 『ヒーリングっど♥プリキュア』は『ドキドキ!プリキュア』の相田マナさん的な「幸せの王子(プリキュア的、ヒーロー的な人)」にのどかさんはなれるのか? というテーゼがあった作品なのですが。

 今回第42話で描かれたのは、(自己犠牲をともなうような意味では)花寺のどかさんは相田マナさんにはならない、という物語の結論です。

 物語序盤の相田マナさんは命綱なしで他人(真琴)のためにタワーから飛び降りる人でしたが(第2話:感想)、のどかは第42話時点で飛び降りない。

 「飛び降りるくらい頑張らないと自分に価値なんかないんじゃないの?」という「おそれ」を手放して、自分を優先。

 ある意味、(自己犠牲をともなうという意味での)「幸せの王子」的、「ヒーロー」的な存在から、ただの「人間」への堕天です。

 こんな自分が助けられてしまった……という自罰を、自己犠牲してでも誰かを助けることでまぎらわそうとしていた女の子が。

 自分を優先できるようになる……までが描かれた作品として、主人公の心(エモーション)の跛行(はこう)を綴った「物語」としても完成されてるシリーズだなと思ったのでした。

 『HUGっと!プリキュア(感想)』が、「人間」でも誰でも「プリキュア」になれる! と第48話で人類全員がプリキュアになるという方向性を打ち出したのに対して。

 『ヒーリングっど♥プリキュア』は、誰しも「プリキュア」にならなくてもイイから、「人間」のまま(問題に対して)なんとかしよう。

 という方向性という感じです。

 実際、感染症などの問題には、「全員がプリキュア(すごい人)になる」のを期待する……は悪手なのですよね。

 誰かや少数の人に「自己犠牲」を強いる……もよくない。

 そこそこいたらない「人間」なりに、一人一人がやれること(それこそマスクに手洗い、密の回避など)をやる……が対策となる。

 それは、自分や少数の人間でパンデミックを何とかできるかもというような、「ヒーロー」性をある意味諦めること。

 そして、自分自身の「悪」を受け入れるということ。

 「食」の描写が豊富なシリーズでした。

 誰かを殺して(食べたりして)、自分が生きてる。

 「すこやか市」のみんなも、そうして生きてきた。

 何かを犠牲にして、自分が生きている。

 そういった長い歴史を積み重ねて、現在何とか存在している現行人類を肯定するような、逆説的な大きな愛。

 他人を犠牲にして自分を優先した自分を愛せるからこそ、現行人類も愛せる。「歴史」も愛せる。

 思いがけず、プリキュアシリーズの中でも、捉えようによってはダークヒーローめいている主人公像。

 いつか映画で『ドキドキ!プリキュア』VS『ヒーリングっど♥プリキュア』が製作されたら、ラスボス戦の花寺のどかVS相田マナは盛り上がりそうです。

(ただし、『ドキドキ!プリキュア』は単純な他者愛賛歌ではなく、他者愛と自己愛は両義的(相互に補い合う)であると最終的には収束していく作品である点には注意が必要ですが。)

 全員救えるはずだ、という希望を描いた『ドキドキ!プリキュア』の中で、取り残されたジョーカーであるジョー岡田さん。


参考:ドキドキ!プリキュア感想/第46話「エースとレジーナ!誕生の真実!」


 のどかさんのまなざしは、アン王女を助けられなくて自分だけ生きてるジョナサンに、それでも生きていてくれて良かった、と愛を贈り得る。

 『ネギま!』も引用したので、最後に同時期(懐かしのゼロ年代!)に週刊少年マガジンで連載されていた僕のバイブル、CLAMPの『ツバサ』から。


「…私はこれからも 誰か…を傷つけて何かを奪う…自分勝手な理由で…きっとその報い…を受ける わたしが…そうしたように…でも…それでも……取り戻したいの 貴方の無くした心を」(写身サクラ)


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(『ツバサ』第17巻 CLAMP/講談社 より引用)


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参考:CLAMP『ツバサ』第17巻/感想/マガジンコミック(管理人のメインブログ・ランゲージダイアリー)

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 花寺のどかさんからジョナサンに贈り得る愛は、『ツバサ』で写身サクラがファイに贈った愛と似ていたりするので。


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(『ツバサ』第17巻 CLAMP/講談社 より引用)

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 視聴者も自罰の女の子であった花寺のどかさんに対して思うのです。

 たとえある種の「悪」をなしたのだとしても、生きていてくれて良かった、と。

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ヒーリングっどプリキュア Blu-ray vol.1
白石晴香
ポニーキャニオン
2020-09-16


→『魔法先生ネギま!』第17巻



→『ツバサ』第17巻



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