相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第4話「ふくらむ、この想い…キュアスパイシー誕生!」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 前回の感想で、芙羽ここねとジェントルーは、


 「孤立」&「力」の「偏在」


 というキーワードを共有している、同じカテゴリに属しているキャラクターであるという考察を展開させて頂きました。

 今話は、そのうちでここねの方が、「孤立」から一歩踏み出してキュアスパイシーへと初変身する……というエピソードです。

 『デリシャスパーティプリキュア』は、かなり現実の現代社会と並走するような文脈で作られている作品であるということがほぼほぼ明らかになってきておりますが、どうして現代社会で「孤立(共同体からの分断)」と「『力』の『偏在(かたより)』」という問題が起こっているのかということについては、

 「孤立」の問題の方に関しては第1話の感想の方で「『大きな物語』の喪失」との関連で書かせて頂いておりますし↓、


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第1話の感想〜今日、大ごはん共同体が生まれた(ネタバレ注意)


 「『力』の『偏在』」の方の問題に関しては第3話の感想の方で近年「格差」の話が話題になっている背景とも絡めて書かせて頂いております↓。


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第3話の感想〜芙羽ここねとジェントルーは富の格差(力の偏在)で翻弄され孤立するキャラクターとして重ねて描かれている


 こういった長い背景がある問題を踏まえた上で、「孤立」した現代人の代表でもあるかのように描かれているここねに関しては、思ったよりも富が「偏在(かたより)」の状態にある現代社会に翻弄されている状態なのが分かってきます。

 ざっくりとは彼女はお金持ちの子で、昨今話題の「格差」では上流の側で勝ち組な側なのですが、もう「様」づけで庶民からちょっと距離を取られてしまっています(「孤立」)。

 「芙羽様」呼びは、ひ、ひとりだけ『マリア様がみてる(当ブログの全部感想ページ)』の世界観なの! 感が面白かったですが、真面目には「様」は他者から距離を取られている呼称として描かれています。ちょっと、人間扱いされてないくらいの勢い。ゆえに、ここねを同じ人間とみているゆいは「芙羽さん」と呼んでますし、これからプリキュアという一つの「共同体」をつくっていくことになるらんも「あの子」と呼んでいて、距離と「孤立」が意識させられる「様」呼びはしないようになっています。

 そんな、「孤立」&「『力』の『偏在』」という問題の渦中にいる現代人たるここねが、その問題の解消に向かって一歩踏み出していく様が描かれたのが今話なのですが。

 問題の解消に向かっていくにあたって、二つ描かれていると思います。


 一つ目は、第1話の感想から書いているとおり、「昔、子供の頃にみんなで食事して楽しかった幸福な思い出」の共有です。


 これがまだ共有できているから、現代ではバラバラになってしまった私たちも、もう一度集まることができるかもしれない……という物語なのですが、第1話の感想で書いたとおり、ここねもゆいと同様、「昔、子供の頃にみんなで食事して楽しかった幸福な思い出」の象徴であるレシピッピがみえる女の子でありました。

 これは、本作的にはここねにも子どもの頃にもらった「ごはん」にまつわる幸せな思い出があることを示しています。

 そして、十中八九、その幸福な思い出は親からもらったものです。

 前回の第3話において、独りで食事している場面より、「再び集まる」がコンセプトであるであろう本作でここねが「再びつながりたい」相手は親だと思われます。

 親に対して何かあるここねが抱く飢餓感・孤独感を、ゆい(キュアプレシャス)が「(お姫様だけど)抱っこ」というカタチで擬似親として補填してあげたのが第3話です。

 で、今回の「デリシャスフィールド(本作では「孤立」や「閉鎖空間」の比喩)」に消えていくゆいの背中に手をのばすここねのシーンなんですが、これも、やっぱり「親の背中に手をのばす」的な象徴に捉えられそうに思えるのですね。

 ゆいとの共同作業で助け出した子ウサギは、もうあからさまにここね自身の比喩でしょうから、子ウサギということは、当然親ウサギが意識させられるということだと思います。ストレートに「分断」されていた子ウサギが親ウサギと「再集合」するという描写でしたから。親ウサギと「分断」されている子ウサギたるここねを、ゆいとここねが力を合わせて再び「再集合」まで導く……といったこれからの物語の暗示になっているように思われます。

 そして、


 問題の解法の二つ目は、「人の力もダシも合わせるのがミソ」というゆいのおばあちゃんの象徴的な言葉です。


 これは、ざっくりとは「なんかまだある日本のよいところ」を表現している台詞だと思います。

 (富の偏在的には)上流のここねと一般庶民のゆいとの共同作業が描かれるわけですが。

 上記のとおり、「力の偏在(かたより)」や「格差」が常態化してゆく世界に翻弄されてここねは「孤立」状態なのですが、何故か日本では「人の力もダシも合わせるのがミソ」的な精神のもとで、上流の人と一般人とのコラボというのは、わりと何だかできてしまう風土がまだあったりします。

 日本の、というのはとくに愛国心的な心情からではなく、他国との比較でみえてくる部分であるからです。

 もうちょっと、階級が固定化されている国・社会だと、上流の階級の人はたとえばパンクロックバンドのライブに行くとか言いだしたら、上流階級仲間から変な目で見られるのですよ。おまえ、頭おかしくなったの? 的な。これは、もう上流の人がみるものはオペラで、とか、階級でみるものが決まっている国・社会だからです。

 けれど、日本はなんか、(富的には)上流の人も「聖飢魔II」のライブ行ったり、街の定食屋とかで普通にごはん食べてたり、庶民と一緒にプリキュア観たり(笑)してるんですよ。

 僕もまだ分析しきれていないところなのですが(やっぱりアニミズム的な風土と関係があるのか? とかいくつか仮説は持っています)、何だかこういう風土であるのは、日本のイイところだと基本的には思っています。

 「力」は「偏在」し、「富」も「格差」状態で、人々は確かにバラバラの状態だけれど、まだ同じものをみれる余地がある。これは、強みだと思います。

 ここが、ここねはジェントルーとは現時点で分岐したんじゃないですかね。

 ジェントルーは、今回はレシピッピをより多く集めようとしているのに対して(より多く集めたものに「力」が「偏在」するという現代的、西洋的な動力です)、ここねは庶民とパンを「シェア」する方に向かった。

 「ジェントルー」とか英語だからまあイギリスだと思うのですが(国名出しちゃった!)、こっちが引き続き帝国主義みたいな方向(リソースを集める)の動力の行動をしているのに対して、ここねは日本的な、「人の力もダシも合わせるのがミソ」的な方向を選択した。これは大きいと思います。

 庶民(ゆい)といっしょにムシャムシャ同じものを食べる方にいきましたからね。よい意味で叶姉妹もコミケにやってくるのが日本です。

 ここねが変身する直前の長い台詞は、全てがコノテーション(含意)表現になっていて、すごいです。

 シリーズ構成・脚本の平林佐和子さん、ただものじゃないです。


 「私、ここに残る」(芙羽ここね)

 ここねが「デリシャスフィールド」内に残るという表面的な意味に加えて、ここまで感想を読んできてくださった方にはわかる通り、バラバラになってしまった現代人が「分断」を拒否した、そういう自分のあり方を表明したというコノテーション的な意味でもある台詞になっています。


 「あの子といっしょに、またおいしいパンを食べたいの」(芙羽ここね)

 今ではバラバラになってしまった現代人の私ですが、子どもの頃の幸福な「ごはん」体験のように、もう一度誰かといっしょにいたい、バラバラの状態から再びつながりたい、という意思表明のコノテーションになっています。


 「心の中であたたかいものが。今まで知らなかった想いがどんどんふくらんでく」(芙羽ここね)

 現代人が潜在的に持っている「再びつながりたい気持ち」についてです。「知らなかった」とは言ってますが、「なかった」とは言ってないので、原初的にはやはり子どもの頃の親とのつながり記憶という位置づけなのだと思います。まだあったそれが、それこそパンのように「ふくらんで」再び自覚するにいたった。私は、もう一度つながりたいのだと。


 「私、守りたい。大切な場所を。あの子と」(芙羽ここね)

 もういわずもがな、「大切な場所」=大局的には現代では人々がバラバラになってしまったために失われた、人々が集う「共同体」的で「集まり(パーティ)」的な人々がいっしょにいられる場所。直近では、コロナ禍で失われてしまった、「みんなで楽しくごはんが食べられる場所」……の比喩です。それを、守りたい。取り戻したい。一人でではなく、あの子と、みんなと(自分以外の他者と、「力」の「偏在」や「格差」を超えて協力して)、という宣言……というコノテーションになっています。

 かくして、芙羽ここねキュアスパイシーに変身。

 「格差(力の偏在)」も「分断」も超えて、「プリキュア(=前作『トロピカル〜ジュ!プリキュア(感想)』から「境界」を渡航する者的な意味合いが付与されている。)」としてキュアプレシャスと並び立った。子どもの頃にもらった想いをふくらませて、「再びつながりたい気持ち」に嘘をつかなかった。前回では擬似親を求めてプレシャスに抱っこしてもらっていたけれど、今度は自分自身も並び立つ。もう一度「大切な場所」を取り戻す戦いに自分も参加する。この世界にたくさんいる愛する人と「分断」されてしまった「子ウサギ」に手を差し伸べる……そういう自分を彼女は選んだ、という表現が思いのほかめちゃめちゃ熱くて感動しました。

 「集まる」こと自体が作品のテーマになっている構造から導き出される感動なのですよね。

 プリキュアの二人目が「集まる」時点でこれですから、プレシャス、スパイシー、ヤムヤム、マリちゃん、拓海(仮面)が「集まる」初回はめちゃめちゃ熱そうで(1クール目ラストにもってくる感じかな?)、今から楽しみなのでした。

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『デリシャスパーティプリキュア』第4話時点での考察のまとめ/togetter

→「プリキュアスタイル」のキュアスパイシー



→パムパム



→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第3話の感想〜芙羽ここねとジェントルーは富の格差(力の偏在)で翻弄され孤立するキャラクターとして重ねて描かれているへ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第5話の感想〜生徒会長(ジェントルー?)が促す「固定観念」から芙羽ここねが一歩自由になっていく様子が描かれるへ
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