『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映/公式サイト@朝日放送)』第5話「なかよくなりたいのに…!ここね、初めてのおともだち!」の感想です。
ネタバレ注意です。
芙羽ここねさんは悩み多き我々現代人の象徴なんだ……みたいなことを前回までの感想で書いておりましたが。
前回までは、主にここねが「孤立」という問題を抱えているのが、現代人的だな〜という話をしていたのですが。
今回では加えて、ここねは「フォーマット(固定観念)に囚われがち」という、これまた現代人的な性質をも(今話時点では)持っているというのが描かれておりました。
初めての友だちであるゆいと仲良くしたいという想いを抱くにあたって、まず「新しくできたお友だちと仲良くする方法」的な本を読んでいるのが、「フォーマット(固定観念)に囚われがち」という彼女の性質を表現しています。どこかに「正解」があるという観念に囚われてしまっている。
これは、リアルの方でいうなら、進学して、就職して、何歳で結婚して、何歳で子どもを生んで、何歳で退職して老後は……みたいな人生のフォーマット・「正解」がまだあるかのような感覚でいることと通じる方向なので、やっぱり現代人的な課題を抱えている人間としての描写だよな〜という感じです。
真顔になるなら。自由な発想になるなら。というか「自由」とか観念的なものを持ち出さなくても、その人なりの本来性・固有性にしたがって普通に自然に生きていれば、友だちと仲良くなるプロセスも、いつ(何歳頃)勉強したいかも、結婚するのかしないのかも、働き方も、その他様々も、「その人なり」になるはずで、固定された「正解」とかあるはずが本来はないのですけどね。
(……なはずなのに、どうして現代で「固定観念」的なものが力を持っているのかという点については、様々な評論・学問や、個人的にもある程度分析している事項がありますが、また何かの機会に書けましたらと思います。)
そんな「フォーマット(固定観念)」からここねが自由になってゆく第一歩が描かれたのが今話なのですが、ステップとしては「条件づけ」の無効化で描かれていきます。
バトル中に「嫌われたくない」と零したここねがあげていった以下の事項。
・楽しく話しかける方法もしらない。
・勝手にリップすすめちゃう。
・お料理もできない。
・その上プリキュアも上手くできなかったら……
(そんな私なんて……)みたいなのは、全体としてここねが「条件づけ」で自分が「友だち」という立場が許されているという観念に囚われているのに起因しています。
「お料理ができる」とか「プリキュアで(単独でも)強い」という「条件」を満たせたら、自分は優秀だからゆいの「友だち」になれる……満たせなかったらなれない……みたいな殺伐とした世界観ですね。
これは、わりとリアルの方でも陥りがちな罠です。劇中では「友だち」ですけど、「婚活」とかですね(笑)。年収●●円以上という「条件」を満たしたら結婚したい。身長●●以上という「条件」を満たしたら結婚したい。年齢●●以下という「条件」を満たしたら結婚したい……みたいな、殺伐とした「条件づけ」の世界で生きている人は、けっこういるらしいです。
そういう結婚観がまったく悪いとまでは言いませんが、そういった「条件」を婚活サイトに入力している時は、フと我にかえって、「あ、今、私は『人間』ではなくて『条件』を見ているんだな……」と自分自身をメタ認知する視点は持っていた方がよいかなと思ったりはします。
さて、そういうここねが囚われてしまっていた「条件づけ」の世界観。ゆいはあっさりと無効化してしまいます。
理由は、「友だち」だから。
ゆいにとってそこに、「条件」の駆け引きは存在しない。
ゆいは芙羽ここねの「条件」ではなく「人間」をみているからですよ。友だちの「条件」、「お話が楽しい」、「料理が上手」……とか「友だちサイト(そんなものがあればですが)」に入力して友だちを決めるような子では、ゆいはまったくないのですよ。
『トロピカル〜ジュ!プリキュア(感想)』で、まなつがローラに対して、人魚であるとか、人間であるとか、プリキュアであるとか、「条件」にまったくこだわらず、いわば「ALLローラ」と友だちだったのと同じです。
参考:『トロピカル〜ジュ!プリキュア』第17話の感想〜ありのままの自分でいられる「居場所」をくれた愛する人を守るという2021年の『人魚姫』(ネタバレ注意)
料理が苦手なのも、ここねの「かわいい」ところであると、「ALLここね」の本来性・固有性をまるっと許容した上で「友だち」だというゆい。
続けて、「失敗は成功のもと」ということを語ります。
これは、本質をついているというか、リアルの方で上述したような人生の「フォーマット(固定観念)」みたいなのに囚われてしまっている人って、深層心理に「失敗してはいけない」というのを持ってることが多々な気はしているのですよね。
「失敗してはいけない」と思い込み過ぎているから、「フォーマット(固定観念)」(とされていること)から外れてみることを恐れて、自分の外部に「正解」があるという思考に逃げてしまう。
個人的な話で恐縮ですが、僕とか、人生の「フォーマット」というか、学生時代から親の介護をはじめて一度も就職せず結婚もせずこうしてプリキュアの感想などを今書いておりますが、日々ヘラヘラと(え)「その人なり」の生を全うしていますからね。
「普通に楽しく遊べばいいパム」(パムパム)
まったく、その通りだと思います(パムパム語録!)。
個人的にも、芙羽ここねさんなりの本来性・固有性に向かっていく方向は応援したい気持ちが高まるエピソードなのであります。
ここねさん。「条件づけ」の無効化と、「失敗は成功のもと」という二つのセーフティネットを獲得したことにより。
「あなたにはあなたの持ち味があるじゃない」 (ローズマリー)
の境地へと踏み出します。「条件づけ」と「固定観念」に囚われていた状態から一歩踏み出して、自分の本来性・固有性に基づいた芙羽ここねさんも改めてスタートです。
前回と前々回の感想で書いた通り、ここねの物語は何かしら親との関係にあると推定されますので。
「条件づけ」と「フォーマット(固定観念)」に囚われているという彼女の性質は、親が何かしら関係しているという推定は成り立ちそうです。
また、これも前回、前々回の感想で書いた通り、ここねにとってのゆいは擬似親として描かれていた面がありますから。
何かしら、本当の親とここねの関係も、ここねが何らかのかたちで自由になっていくような物語として描かれていくのかもしれないと思ったりすると、今から面白そうだとワクワクします。
そして、そして!
ここから物語のギアが既に上がる印象を非常に受けているのですが、この作品はすごいなと思っているところがあります。
上述の「フォーマット(固定観念)」にまつわる物語が、今話では、芙羽ここねと生徒会長の対照構造として描かれているのです。
今話の最初の方でちょっとだけ出てきた生徒会長が体育館の壇上で語っていた台詞は、
「遊びに気をとられ勉学がおろそかにならぬよう。気を引き締めた生活を心がけてください」(生徒会長?)
です。
これは、めっちゃ「フォーマット(固定観念)」側の内容です。上記したパムパムの「普通に楽しく遊べばいいパム」と逆ですから。
そんな「フォーマット(固定観念)」を促してくる生徒会長に対して、制服を着崩している拓海、会長の話を聞いてなくてごはんのこと考えているらん、とかは、「フォーマット(固定観念)」の無効化側のキャラクターといえます。
加えて、生徒会長はジェントルーさんと姿と声が似ています。
今話では、ジェントルーさんは「失敗もすいとんのもと」というゆいの「フォーマット」から外れた発言を、それを言うなら「失敗は成功のもと」だと訂正、「フォーマット」側に引き戻す役割をになっています。
生徒会長がジェントルーさんと同一人物なのかどうかまではまだ置いておきますが(ミスリードの場合もあるので)、いずれにしろ、生徒会長とジェントルーさんが、今話では「フォーマット(固定観念)」を促す者、という共通のカテゴリのキャラクターとして描かれているということは言えそうです。
ここまでの対照構造をざっくりと整理してみると。
「フォーマット(固定観念)」大事派:生徒会長の演説・ジェントルーさんのゆいの発言修正・ここねの親(?)
「フォーマット(固定観念)」から自由派:ニンジンを生で食べるゆい・おばあちゃんの言葉という自分と縁ある言葉には強いけどことわざのようなフォーマット的なものにはうといゆい・ある意味おネエ的なマリちゃん・今話で一歩踏み出したここね・制服を着崩している拓海・フリーダムにごはんのことばかり考えて食べ歩いているらん・etc...
です。
今話でいえば、失敗にもなりそうだったピーラーで剥きすぎたニンジンをスライスで昇華したゆいとここねの共同作業のあり方は「フォーマット(固定観念)」から自由派と捉えられそうですし。
毎回既製品を買って帰るジェントルーは「フォーマット(固定観念)」大事派といえそうです。
必ずしも「フォーマット(固定観念)」大事派が悪いとは言えないと思うのですが(規律的なものが、人間社会にイイ影響を及ぼす場面とかも、多々あるでしょう)、今話時点では、何だか「フォーマット(固定観念)」にがんじがらめになってしまって、「孤立」していたという芙羽ここねさんに、現代人の象徴をみる的な方向で共感してしまうので、「フォーマット(固定観念)」から自由派を応援したい気持ちに視聴中の感情は向いている感じです。
「生徒会長」という役職も、前回、前々回の感想でいうところの「力の偏在」側のポジションだと思うので(まあ、学校の中の力が集まってくるポジションではあるでしょう)、ますます、これまで書いてきた芙羽ここねとジェントルーは物語上の同じカテゴリ(「孤立」「力の偏在」側)のキャラクターとして描かれている説がより真実味を帯びてくると思います。
もう、ここねとジェントルーがどうなるかというのは、今から物語上のテンションがめっちゃ高まっている事項なので、その物語を! もっとくれ! 状態に今からなっています。
今回書かせて頂いた対照構造からいくと、今話が一歩目だとして、ここねさんはニ歩目、三歩目くらいになると、彼女もニンジンを生でかじるようになる可能性があるので。ここねが生でニンジンをかじりながらジェントルーと対峙する自由の夜明け展開(自由感はあるよね!?)に期待して、引き続き作品を追っていきたいと思うのでした。
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『デリシャスパーティ?プリキュア』第1話の感想〜今日、大ごはん共同体が生まれた(ネタバレ注意) - 少女創作ファンブログ―The Girlls Fiction Fan Blog(GFFB) https://t.co/1g39Gzrcfb …ブログ更新です。 #precure #デパプリ
— 寂しいシロクマ(相羽裕司)/仙台市太白区 (@sabishirokuma) February 6, 2022
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●『デリシャスパーティプリキュア』第5話時点での考察のまとめ/togetter
→「プリキュアスタイル」のキュアスパイシー
→パムパム
→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第4話の感想〜親と分断された子ウサギに手を差し伸べられる自分になるということへ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第6話の感想〜ロックダウン状態となった学校に、閉塞、誤解、固定観念を解消して「集まり」を取り戻していくお話へ
→『デリシャスパーティプリキュア』感想の目次へ