相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第6話「学校!怪物!大パニック!?ねらわれたエビフライ!」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 改めて確認しておくと、『デリシャスパーティプリキュア』という作品は、現代人は何らかの意味で「分断」された状態にあるという問題意識のもと、「ごはん」をきっかけにして「分断」を解消していこう、もう一度「再集合」しよう、「集まろう」というテーマの物語です。

 そのような大きい物語の流れと合致するように、今回の第6話の中でも、


「分断」
 ↓
「再集合」(への示唆)



 という流れが描かれておりました。

 今回は特に、「分断」を引き起こす要因が分かりやすく描かれていたのが特徴だと感じました。

 今話で描かれていた、(現代人に)「分断」が生じる要因は、ざっくりとは三つです。


1. (物理的に)閉ざされた場所

2. 誤解(ディスコミュニケーション)

3. 固定観念



 の三つですね。

 作品理解にあたって重要な三つかと思うので、ちょっとそれぞれ見ていってみましょう。

 たいへんに素晴らしい作品だと思っているので、細かい事項の理解度を上げながら楽しんでいきたい!


1. (物理的に)閉ざされた場所

 シンボル的には、芙羽ここねのお友だち三人がバトル時に体育用具倉庫のような場所に(物理的に)閉じ込められたのを、ここねとお友だちが力を合わせて脱出する。そのイベントを通して、ここねとお友だちの間にあった「分断」が解消される……という流れが描かれます。

 また、地味に「学校」自体が「閉ざされた場所」でマリちゃんが入ってくるには一計が必要で、ここは「『こ』さん」の「マリちゃんは『デパプリ』における大人サイドの主人公説」からすると、↓



 大人サイドの場所と子どもサイドの場所にあった「分断」を双方から解消して、大人も子どもも力を合わせる、という展開の善性を描いていると言えそうです。

 そして、比喩的にだいぶストレートだなと思ったのは、学校を調査している間全生徒が教室から物理的に出られない……というのが、リアル世界のコロナ禍におけるロックダウンや緊急事態宣言が意識させられる表現になっているというところです。

 この「分断」の中で、ゆいとここねだけコロナ禍におけるエッセンシャルワーカーのごとく孤立状態で問題解決にあたるのですが、どうもやはりエッセンシャルワーカーだけに任せておくのではなく、みんなで協力していこうという方向の描き方になっていきそうな気配を感じ始めています。

 そういう意味で、上述のここねとお友だちが「分断」を乗り越えて合流したのは、エッセンシャルワーカーと一般人とが改めて協力関係になった第一歩という感じで感慨深いです。

 なのでやはり、マリちゃんのデリシャスフィールドはうちのブログでは当初から考察しているとおり「分断」のニュアンスが含まれるギミックなので、物語上のどこかのタイミングで解消され、外の世界のみんなと協力するという展開になっていく類の事項でありそうです。


2. 誤解(ディスコミュニケーション)

 今話だけの要素としては「怪物ではなくパムパムだった」という「誤解(ディスコミュニケーション)」が、えらい「分断」を引き起こしてしまったという描き方です。

 そして、話数をまたぐ縦軸の要素としては、生徒会長・菓彩あまねがジェントルーである……という「ディスコミュニケーション」が、大きな「分断」要素として立ちはだかっているという現在の第6話時点のストーリー進行度です。

 この「誤解(ディスコミュニケーション)」要素に関しては、「正体を知れば怖くない」という解決の方向が今話でも示されています。

 これも比喩的にだいぶストレートだなと思ったのですが、かなりの程度「劇中の怪物という誤解」=「リアルの新型コロナウイルスに関する誤解」と解釈可能であるという表現なのかなと思います。

 新型コロナウイルスに関しても、「誤解」を解いて「正体を知れば」かなりの程度対応が可能(怖くない)。

 そもそもリアルのコロナ禍の「孤食」という現象が作品制作のひとつの動機となっていると推察される本作ですが、政治的に直接的すぎるメッセージは避けながらも、これは作品の方向性としては、一つ一つ「分断」要素は解消していって、「孤食」の状態から再び(何らかのカタチでの)人々が集まっての食事風景を回復していこうという未来を向いているようには感じる部分です。


3. 固定観念

 本作で「固定観念」がどのように「分断」と繋がって描写されているかについては、前回第5話の感想に書いておりますので、じっくり知りたいという方はそちらを参考にして頂けたらと思います。↓


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第5話の感想〜生徒会長(ジェントルー?)が促す「固定観念」から芙羽ここねが一歩自由になっていく様子が描かれる


 今話でも、この「分断」と結びついた「固定観念」要素がいくつか出てきます。

 一つ目は「生ハムメロン」で、ハムとメロンは別々に食べるものだという「固定観念」を手放してみたら、「ごはん(生ハムメロン)」の「シェア」が生じて「分断」が一つ解消されたという流れが描かれています。

 二つ目は、「芙羽様はエビフライなんか食べない、エビならソテーでしょ」という「固定観念」(というか一般生徒からここねに向けられる固まったイメージという「固定観念」一般)が解消されることによって、ここねと一般生徒の間にあった「分断」が解消に向かうというのも描かれています。

 三つ目はゆいの「同じ浜の飯」という「固定観念」というか勘違いの表現の思い込みが、ここねによって「同じ釜の飯」と本来のカタチに復元されることで、「集まり」の範囲が拡張されるということが描かれています。

 やや分かりにくいですが、「同じ浜の飯」だとここねが言及してる通りシーフード限定でしか人が集まれないので、シーフード好きとその他は「分断」された状態です。

 これが、「同じ釜の飯」を食べた人はみんな友だちというのなら、その「集まり」の可能性はたいへんに広範に及びます。

 重要なのは、「同じ釜の飯」が範囲だと、もう菓彩あまね(=ジェントルー?)は同じ学校の食堂の「ごはん」を食べてますので、ゆいたちと「友だち」の射程に入っているのですね。

 加えて、ジェントルーが狙っているレシピは、基本的にゴーダッツ様の好物ですから、「おなじ『ごはん』を食べている」まで拡張され得るなら、ゆいもジェントルーもゴーダッツ様も同じ「ごはん」を食べているわけで、連鎖的にゴーダッツ様にすら 「集まり」の中に参加してもらう射程が見えてきます。

 ◇◇◇

 以上、


1. (物理的に)閉ざされた場所

2. 誤解(ディスコミュニケーション)

3. 固定観念



 の三つの「分断」要素を乗り越えて、「再集合」、再び「集まる」へと向かっていくという今話のエッセンスを取り出してみた感想でした。

 再び「集まる」ことさえできれば、何とかなるんだ! という前向きな気持ち、人間を信じている気持ちが伝わってくる作品なのはこのご時世でも徳分を保持しているなと思うところです。

 今話でも、プレシャス一人では乗り越えられなかったけれど、スパイシーのサポートで突破口が見える。当たれば勝てる(500キロカロリーパンチは強力なので)みたいなすごいものを持っている人はこの世界にけっこういる。それぞれの特性を補い合って、そういう人のパンチをちゃんと当てていけば絶対乗り越えられるはずだ。

 ……という前向きな前提を信じるがゆえの、様々な特性を持った人々の「再集合」という戦略・戦術。

 感染症も金融危機も戦争もたいへんですが、だからこそ前向きで希望的な事項に気持ちを集めていくことも必要だろう、というのは、たいへん「わかる……」と思いながら視聴している作品なのでした。

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『デリシャスパーティプリキュア』第6話時点での考察のまとめ/togetter

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→ボーカルアルバム発売決定



→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第5話の感想〜生徒会長(ジェントルー?)が促す「固定観念」から芙羽ここねが一歩自由になっていく様子が描かれるへ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第7話の感想〜華満らんの家族で作り上げたラーメンの味のキレが力の偏在の問題で孤立する菓彩あまねの閉塞を切り拓いてゆくへ
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