相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第10話「泣かないでレシピッピ…誕生!ハートジューシーミキサー」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 私事ですが、和実ゆいさんに憧れて、筋トレを始めました。

 西川貴教さんと和実ゆいさんとで、どちらを憧れの対象として設定するか迷ったのですが。

 マッチョというよりも「力もち」になりたいという気持ちが強く、和実ゆいさんが僕のデリシャス・マイ・ヒーローに。

 このニュアンス、いつか誰かにそこはかとなく伝わってほしい。そのうち僕も、何キロカロリーかパンチを出せるようになりたい。

 さて。

 『デリシャスパーティプリキュア』、今回の第10話はシリーズ構成の平林佐和子さんが脚本で、レシピッピが作中で何を象徴してるかにかなりの程度せまっている重要回です。

 第1話(プリキュアシリーズは基本的に第1話に全てのエッセンスが詰められている)を意識したと思われる表現もけっこうみられたりで、じっくりと観ないとコアをとらえられないなと思い、2回観ました。

 結局、作中の重要概念、「レシピッピ」とは何なのか?

 これは物理的にというより、象徴的な意味合いで、ということになりますが。

 主人公のゆいさんの今話の以下の台詞より、


 「レシピッピってまるで、『ごはんは笑顔』みたい」(和実ゆい)


 現在の第10話時点でですが、


「レシピッピ」=「ごはんは笑顔」


 ということが明示されます。

 どういうことか?

 以下、二つの観点からざっくりと解釈してみます。


1. 「笑顔」とは何か?
2. (「笑顔」を)喪っているのは誰か?



 最初の方からいってみましょう。


1. 「笑顔」とは何か?

 第1話から描かれている要素ですが、「笑顔」が強調されるということは、逆説的に、現在は「笑顔」でいられない何かがある……ということになります。

 実際、第1話の回想シーンの幼いゆいは、最初泣いていて、「笑顔」の状態にありません。

 という訳で、今回(第10話)のハートジューシーミキサー登場前の回想シーンにも登場していることから、やはり第1話の過去回想の幼いゆいのシーンがとても重要と思われ、当ブログではずっと書いておりましたが、


 「笑顔」=子どもの頃の幸福な食事体験


 というニュアンスが本作にはあるようです。

 今回フォーカスされている料理が、第1話と同じオムレツで、これはやはり「子どもの頃に食べていたもの」の象徴と捉える解釈がしっくりときます。
(そして、第10話で追加で登場の「プリン」も、「子どもが好きな食べ物」というニュアンスを感じ取れる対象ということで、そんなにおかしくありません。)

 ソレを、大事なものだと思うから守る……というのが主人公の和実ゆいさんの動機である物語です。


 「大切な思い出をくれた、レシピッピを!」(和実ゆい/第10話)


 では、なんで「ごはんは笑顔」である「子どもの頃の幸福な食事体験」が現代では失われているかといったら、これはやはりある程度企画の段階で、リアルの方のコロナ禍における「孤食」に関して何らかのアプローチを描きたいという気持ちが本作には入っているように推察したりします。

 前回(第9話)ラストの流れから、コメコメ(こちらも、「子どもの頃の幸福な時間」要素を担っているキャラクター)の成長を見ながらゆいはおばあちゃんが幼いゆいに向けていたまなざしを追体験してる……という表現になっているのが顕著でしたが。

 ちょうど今話のタイミングでおばあちゃんが亡くなっているのが明示され、視聴者目線=おばあちゃん目線=ゆい目線=子どもを見守る大人目線……から、「孤食」に象徴されたりな感じで、現在の子どもが何かしら分断的、孤立的な状況にあるのを、何とかしてあげたいな〜という気持ちがドラマに入っているのを前提としたりすると、おばあちゃん(今では亡くなっている)の言葉(「ごはんは笑顔」)の象徴であり、子どもの頃の幸福な時間の象徴である「レシピッピ」たちが力を貸してくれて、ハートジューシーミキサー登場、という今話の流れはけっこうグっとくるものがあったりします。


2. (「笑顔」を)喪っているのは誰か?

 リアルの方も物語解釈の射程に入れてイイなら、「現代人全般」ということになると思いますが、お話的にここ数話で焦点があたっているキャラクターとなると、菓彩あまね/ジェントルー……ということになります。

 あまねはレシピッピが見えるので、子どもの頃の(食事にまつわる、あるいは家族にまつわる)幸福体験があるはずです。

 なのだけど、そんな子が親(菓彩)の所から離されて革命勢力(ブンドル団)に傾倒するよう誘導されてる形です。今話のゆいのおばあちゃんの言葉的には、「小さじ一杯の幸せ」を見失っている状態です。

 いわく、小さじ一杯で、味(菓彩あまね/ジェントルーという人間)が大きく変わり得ることが今話で示唆されているわけですが。

 じゃあ、あまねの「小さじ一杯の幸せ」を誰が作中で持っているのかといったら、あまねの両親以外ではゆいしか作劇上あり得ないと思われ、ゆいがおばあちゃんから貰った幸せをシェアする展開になるのかなと思ったりしています。

 それができるのだとしたら、おばあちゃんは亡くなっているけれど、もらった幸せは生きているということになります。

 菓彩あまね/ジェントルー……を救済できるのだとしたら、上述した現代全般の分断や孤立や(本当は持っている)幸福の忘却に対して、希望をみつけることができる感じのストーリーの流れ&作劇になっているので、菓彩あまね/ジェントルーが潜在的に大事に想っているレシピッピ(たぶんお菓子関係と予想)が明らかになるであろうこの先の展開は、フライングでちょっと涙ぐみそうな感覚もあります。

 現在はバラバラな現代人が、子どもの頃の幸福な食事の記憶という共有できる旗印のもとにもう一度集まろうというコンセプトの作品だとして、ゆいとあまねに食の「共有体験」が必要になってくると思うのですが、この点に関してはゆいが第5話でフルーツパーラー菓彩のグミを食べてたのが伏線なのかなと思ったりです。

 既に、ゆいとあまねの間には、食の、子どもの頃の幸福な時間にまつわる「共有体験」はニアミス感がありながらもあるのですよね。というか、がっつり子どものころにリアル体験として二人はバーベキューをしていた! とかよりも、このほのかにかすってる感じの食の「共有体験」というのは、コロナ禍なりの「集まり」のカタチをかなり単純ではなく模索してるフシがある(リモートとかテイクアウトとか、色々出てきますよね)本作的には、より熱いと感じたりもします。

 また、バラバラな状態の人々がもう一度集まるのが主題の作品なので、現在青瞳あまねと赤瞳あまねにバラバラになってるのはテーマに合ってるとも思います。何らかのカタチで両義存在になって(「分断」の解消)紫瞳になったりすると(青瞳は既にメインメンバーではここねがいる)全てのピースがピタっとハマったりもするという、フとした細部にとても「作り込まれている」という感覚を感じる作品だったりです。

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『デリシャスパーティプリキュア』第10話時点での考察のまとめ/togetter

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