相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第20話「あまねのマナーレッスン!憧れのレストラン」の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 菓彩あまねさん、初登場の第5話の冒頭のシーンが、生徒会長としていわば「固定観念」を伝える側の役割をしている……というのは、当ブログの感想では当初から注目していたところでした。


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第5話の感想〜生徒会長(ジェントルー?)が促す「固定観念」から芙羽ここねが一歩自由になっていく様子が描かれる


 今話はいちおう流れとしてはそのあたりからの延長で、あまねさんが「マナー」という、いちおう「固定観念」側の要素っぽいものを、ゆいやらんに伝えようとする……という前半のエピソードが描かれます。

 ただ、あまねさんに関してはもう、ジェントルー→キュアフィナーレ……という、一種のアイデンティティの昇華イベントを経た後ですから、この「固定観念」にこだわりがち……という彼女の要素も昇華される感じでお話が進んでいきます。

 芙羽ここねさんの両親の言葉をきっかけに、「マナー」とは根底に「思いやり」があるものだという気づきにいたり、何というか、「固定観念」的「杓子定規」的な要素は彼女の中で薄まり、「マナー」というものも押し付けるようなものでもなく、かといって否定されるものでもないというような、ステップアップした概念へと昇華されます。

 ここまでだと、ここね→あまね……という一方向の関係の流れだけなのですが、今話はむしろここからが真骨頂というか、あまねがここねに返した(夕日のシーンイイですよね。「境界領域」かつ「変化」の場面ですよね……。)、


 「だが、離れていても、ここねはご両親から大切なものをちゃんと受け取っている」(菓彩あまね)


 という言葉に、ここねが思いのほか救われて、今回のエピソードはあまね→ここねでも気づきを与えている、という、ある種の関係性の相互成立のお話になっています。

 あまねという作中で「家族」の要素が強いキャラクターの言葉でここねが影響を受けているので、明らかにここねの「家族」にまつわる物語、とくに「両親」に関する物語のひとつのキーポイントが今回描かれているのですが。

 ここねは、物語冒頭時点では「孤立」の要素を持っているキャラクターで、わかりやすくは第3話(感想)ラストで両親と離れて一人でごはんを食べてるシーンで象徴的に表現されている……とはずっと書いてきたわけですが。

 ここにきて、そういったここねの「孤立」っぽい要素は、必ずしも否定されるものでもない……という物語の力が増してきました。

 ようは、作中で「リモート」を必ずしも否定的に扱っていないのと関係する感じというか、ここねは両親とは物理的には離れていることが多いのだけど(一種の「リモート」的状態)、両親から大切なものはちゃんと受け取っている、というのが今回のポイントです。

 ここねが初変身する時の第4話の前口上では、明らかに「これまでは『一人』が楽だったけど、ゆいがきっかけで『みんな』志向が芽生え始めている」……という趣旨のことを語っていますから、


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第4話の感想〜親と分断された子ウサギに手を差し伸べられる自分になるということ


 前提として、「一人」から「みんな」への物語はあるキャラクターなのですが、もう今回興味深いのは、「一人」と「みんな」が二項対立……というか「白か黒か」でどちらかを選ばなければならないという話では「ない」物語をになってるのが芙羽ここねというキャラクターっぽいというのがいよいよ明らかになってきたところなのですね。

 「みんな」に惹かれた、つまり「一人」はダメだった……では「ない」。

 「みんな」に惹かれた、かつ「一人」でも両親から大切なものも受け取っていた……むしろ、こっち側のストーリーをになってるキャラクターっぽいです。

 奇しくも、最近の感想で話していた、「リソース」は限られているという「おそれ」を抱いているゆえに選択肢が限られてしまう……という話も絡められそうな要素で興味深いです。

 「一人」か「みんな」かどっちかを選ばなきゃ! とか、「対面(物理的な集まり)」か「リモート」か、どちらかを選ばなきゃ! というのは、そう考えてみると、「おそれ」からくる精神の選択肢の制限です。『初代』で雪城ほのかさんが言っていた「心の宇宙の自由」とはちょっと違う心理状態という感じ。

 本当に心が自由なら、特に「おそれ」から精神が制限されていなければ、ある固定的な「家族」像がどうこう! とかじゃなくて、らんの「家族」は「(物理的に)みんな」いっしょにいる感じだけど、ここねの「家族」は「リモート」要素がある、それだけだ……みたいな「かろやかさ」が出てくるのですよね。あるいは、「一人」と「みんな」はやりようによっては両方選ぶことも可能だったりする、という方向もアリになってきますし。

 何気に、「孤立」と「分断」に陥りがちな現代人の代表として当ブログの感想では序盤から注目していた芙羽ここねさんと、ここ最近の夏のクライマックス・キュアフィナーレ登場エピソードでフィーチャーされている菓彩あまねさんの物語がクロスして、おそらく終盤の物語に向けての(テーマ的な)布石も打っているのであろう、ことのほか面白い回でした。

 この感じだと、シナモンさんなのかゴーダッツ様なのか、新たなる第三のキャラクターなのか、やはり「おそれ」や精神の「制限」のもとに二項対立の呪縛にかかってる誰かがいて、今回のここねやあまねの物語も含めて、全編の物語で描いてきたことでその呪いを解く……みたいな作劇なのですかね。

 当ブログの感想的には序盤でとても注目していた芙羽ここねさんが、物語全体でもちゃんと重要キャラクターっぽくて、嬉しい〜と思った第20話の視聴の感想だったのでした〜。

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『デリシャスパーティプリキュア』第20話時点での考察のまとめ/togetter

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→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第19話の感想〜ケーキ二つ分のリソースが世界にはあると信頼し、「おそれ」を抱く誰かを癒すためにまたあつまっていく話へ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第21話の感想〜「終わり」にまつわる歴代プリキュアシリーズのテーマも含めて情緒的に描いた神回へ
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