相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第21話「この味を守りたい…!らんの和菓子大作戦」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 今話のキーワードは「60年」です。

 ひとつは和菓子屋「はごろも堂」が続いた年月ですが、加えて、松山咲枝(まつやまさきえ)さんの年齢も含めて、ゆいのお祖母ちゃんの世代が意識されるキーワードになっています。

 さらに踏み込んで、ゆいのお祖母ちゃんは亡くなっている、「終わり」がおとずれている……ということが意識されるつくりになっています。

 まさかのかたちで、この要素が今回らんがメインの回であることにかかっていきます。

 このブログの感想では、序盤から「家族」が一つの大事な要素になっている本作において、華満らんというキャラクターは、「家族」に関してとても充実していて(父、母、妹、弟と、欠けることなく現在進行形で仲もよい)、「家族」に関してなにか欠けているところがある(と当初解釈できる)芙羽ここねや菓彩あまねを、むしろ導くようなポジションにあるキャラクターだということを考察してきました。


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第7話の感想〜華満らんの家族で作り上げたラーメンの味のキレが力の偏在の問題で孤立する菓彩あまねの閉塞を切り拓いてゆく


 そんならんに関する、ここにきての(個別キャラクターの物語としての)欠点・課題が今回明らかとされます。

 つまり、「家族」に関して満ちているからこそ、「終わり」が分からない(受け入れられない)、という欠点というか課題です。

 今回、らんは和菓子屋「はごろも堂」の「終わり」に関して、(物理的な)延命という方向をいったんとろうとしてしまうのですが、「はごろも堂」は明らかに「家族」にかかっていますので、らんは、まさか自分の「家族」に「終わり」がくることを意識はしていないキャラクターだというのが伝わってきます。自分のお父さんやお母さんが死ぬとは、今はまだ、まさか考えていない。

 ここが、お祖母ちゃんの死を経験しているので、「終わり」を知っているゆいと拓海とは違う。これは幸せなことだとも思うのですが、今回ではらんの課題のような感じとして描かれていきます。

 今話前半の視野では(物理的な)延命という方向しか見えていなかったらんに対して、新しい視点を与えている箇所は二つあって、それぞれが『Yes!プリキュア5GoGo!』と『フレッシュプリキュア!』(のテーマ)に対応しています(え!?)。

 一つ目は、「はごろも堂」の松山咲枝さんの、


 「何でも、古いのと新しいのは、入れ替わっていくもんだから」(松山咲枝)


 です。

 これは、ちょっと長年プリキュアシリーズを追ってる方向けの表現になってしまいますが、プリキュアシリーズ的な「永遠」論にまつわる箇所です。

 プリキュアシリーズ的な「永遠」論がいちばん色濃く出ているシリーズは、『Yes!プリキュア5GoGo!(感想)』です。

 『Yes!プリキュア5GoGo!』の敵側、「エターナル」の館長は、ずっと「保存」し続けるという、「固定」的な「永遠」を志向しています。

 なので、今回のらんの「はごろも堂」の(物理的な)延命という方向は、一歩間違えると、エターナル館長的な意味での「永遠」に行ってしまう可能性がある方向です。

 それに対して、『Yes!プリキュア5GoGo!』で最終的に主人公の夢原のぞみを筆頭にプリキュアたちが選ぶのは、「始まり、終わり、また生まれるという、生まれ変わり続ける『永遠』」です。


参考:Yes!プリキュア5GoGo!/感想/第48話(最終回)「未来へ!永遠不滅のプリキュア5!」


 いわば物質モチーフの「永遠」と植物モチーフの「永遠」という、けっこう哲学的な話も含んでいるのが『Yes!プリキュア5GoGo!』というシリーズですが、今回ラストでらんが至った「古いのと新しいのは、入れ替わっていく」も受け入れながらの「はごろも堂」の(記憶の)継承……という方向は、『Yes!プリキュア5GoGo!』ラスト的、植物モチーフ的な「永遠」です。

 こちらの方の「永遠」を知っているのなら、いつからんもお父さんやお母さんが死んだ時、「思い出」を胸に立ち上がることができるはず。

 「60年」級の年月、亡くなっているゆいのお祖母ちゃんの連想から始まった本エピソードが、次の代(の象徴)、コメコメの笑顔の風景で結ばれているのは、この上なく秀逸な構成です。

 二つ目は、ラストの菓彩あまねの語り、


 「歴史というものは、単に出来事や事実が継承されていくことではない。人々の瞬間瞬間の想いが、そこにはある。人は人に、それを伝えたくなるんだ。そしてそれが積み重なり、歴史となっていく」(菓彩あまね)


 です。

 これは、今度は『フレッシュプリキュア!(感想)』的な「終わり」の乗り越え方となります。

 マジ落ち込みを繰り返しながら、「幸せゲットだよ!」を口癖に幸せを求める『フレッシュプリキュア!』の主人公・桃園ラブさんは、やがて最大の壁にぶつかります。

 どんな、幸せも、いつか「終わる」。

 『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』のルーレット伯爵の名台詞。


 「人生山あり谷あり。されど辿り着く先は一つ。ゴール」(ルーレット伯爵)


 どんな「幸せ」があったとしても、最後に待っているのは「ゴール」=「死」。

 今回のらんのケースだと、「はごろも堂」は閉店するし、らんのお父さんもお母さんも、そして自分もいつか死ぬ。だとしたら、全てに何の意味があるのだろう、という話です。

 『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』では、この圧倒的な「終わり」=「死」という課題に対して、まさにあまねが今回語った「人々の瞬間、瞬間の想い」で乗り越えます。

 つまり、あの日、映画館でミラクルライトを振った幸せな瞬間、瞬間です。それだけは確かなものなので、「終わり」や「死」が必ずくるものだとしても、「意味がなかった」とは言わせない。


参考:映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?/感想


 実際、僕も13年前に『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』を映画館で観た時に、児童たちがミラクルライトを降って館内が光に包まれた光景を覚えていますが、そこにはやはり何らかの真実性があり、決して「終わり」があるから無駄なんだ、とは言えない「確かなもの」が感じられます。

 今話で、「はごろも堂」の幸せな瞬間に流れていたのは、そういった類の真実性。らんも、それは(物理的な)延命を超えた確かさを携えたものなのだと分かったから、キュアスタにその「瞬間」を切り取ったものを残すという方向性に切りかえます。

 らんのお父さんとお母さんも、いつか死にます。でも、たとえばいっしょに食材を求めて世界中を回った旅路や、「ぱんだ軒」での瞬間、瞬間の幸せな時間は、何物にも冒涜されるものではない。

 全体的に、「死」、「継承」、「永遠」といった題材が遠景に見え隠れするエピソードで、『デリシャスパーティプリキュア』という作品自体が、来年のプリキュアシリーズ20周年作品の前フリも兼ねてるのかな、とちょっと思い始めていたりします。

 僕とか、Rubyさんとか、プリキュアシリーズの感想を(ちょくちょく間をあけながらですが)18年とか書いているわけで、上述したような文脈がなければ、ただの狂人なわけです(え)。

 しかし、いちおう僕は『Yes!プリキュア5GoGo!』的な「永遠」を志向しているし、『フレッシュプリキュア!』的な瞬間瞬間の「終わり」を超え得る真実性のようなものも信じているので、こうして今日もブログを書いているわけです。

 だいたい、らんのキュアスタ=僕とか書いてるブログ……くらいの意味合いでそんなにも間違ってない(え)内容のエピソードだったので、長年こういう活動やってる身としては、ちょっと嬉しいな〜と思ったりしたお話だったのでした。

 だから、デジタルアーカイブスってめっちゃ大事なんですよ(いきなり政治の話)。

 「60年」とかのスパンでみた場合、僕の駄文が誰かの目に触れて、その誰かがなんか希望とかを得たりする可能性はあるわけで、そういう希望の拡張性を維持していくためにも、『Yes!プリキュア5GoGo!』的な「永遠」を志向し、『フレッシュプリキュア!』的な瞬間(今日の、新ED「ココロデリシャス」が初めて流れた「瞬間」もハっとさせられました。)を重ねることを念頭に、日々文章でも書いていこうかと思ったりした、第21話の視聴の感想だったのでした〜。

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『デリシャスパーティプリキュア』第21話時点での考察のまとめ/togetter

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→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第20話の感想〜芙羽ここねと菓彩あまねの交流が徐々に二項対立を和らげ軽やかな世界を描き出してゆくへ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第22話の感想〜「伝説」の復元と尊重と「源流」からも自由に未来を選択していくことは両方あってイイという話へ
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