相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第23話「ここねのわがまま?思い出のボールドーナツ」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 わりと視聴者的には衝撃だった、序盤の印象的なシーン。第3話ラストの、ゆいたちは「みんな」でごはんを食べているのに、ここねは「一人」で食べている……という場面について、今話でほぼほぼ(テーマ的にも、絵的にも)回収されました。

 今回のラストでは、ここねもお母さんの芙羽はつこさんとお父さんの芙羽しょうせいさんと、「みんな」でごはんを食べています。

 その上で、


 「私、一人も好きだけど。みんなで食べるのも好き。お友だちが、それを教えてくれたの」(芙羽ここね)


 とのことで、やはり、特にこちら↓


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第20話の感想〜芙羽ここねと菓彩あまねの交流が徐々に二項対立を和らげ軽やかな世界を描き出してゆく


 の感想記事で考察したとおり、芙羽ここねというキャラクターがになっていたのは、「一人」と「みんな」、両方! ということのようです。

 その他にも、ここねに関する重要な要素がたくさん昇華されていて、今話はたいへんに芙羽ここね編重要エピソードでありました。

 たとえば、ここねは、「力の偏在」という作中の題材をちょっとになっているところがあって、お金持ち設定、つまりここねは力がある種かたよって集まっている側の人間なのだ、というのは、「ブンドル団(位置づけ的には一種の革命勢力)」絡みの話で意味がある設定であるのだろう……といった考察は、こちらの感想記事↓


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第3話の感想〜芙羽ここねとジェントルーは富の格差(力の偏在)で翻弄され孤立するキャラクターとして重ねて描かれている


 の頃から書いておりました。

 その流れでいくと、ここねのお母さんの芙羽はつこさんの「神の舌」は、明らかに「力の偏在」要素です。どうにもこうにも、芙羽家の人々というのは、力を(ある種かたよって)「持ってる側」の人間なのです。

 なのですが、そういった「力の偏在」要素を無効化するもの……というか、そういうのとは位相が違うものとして出てくるのが、今回の「思い出のボールドーナツ」です。

 この「思い出のボールドーナツ」は、「神の舌」文脈での味のジャッジも、お金も関係なく、芙羽ここねと芙羽はつこ(&しょうせい)の「分断」を修復する大事なものとして描かれています。

 『デリシャスパーティプリキュア』を全体的に、「力の偏在」によってもたらされる「分断」(いわれがちな言葉だと「格差」の話とかね)を、それでも共有できる「ごはん」にまつわる「思い出」で再び繋いでいく物語であるととらえるなら、今話はまさに「神の舌」という「力の偏在」要素を押して前進していったら、気がついたら娘のことが今ひとつ分からなくなってしまっていたはつこさんが、娘のここねとの「分断」を、「思い出のボールドーナツ」という共有している「思い出」で修復するお話となっているのでした。

 ただ、ポイントとしてははつこ(&しょうせい)とここねとの間に「分断」は生じかけていたのですが、だから「一人」は悪い! といった方向ではなく(上述したように、「一人」じゃなくて「みんな」になろうという話では「なく」、「一人」と「みんな」両方よいところがあるという話)、「伝える」ことをおろそかにしていると、「すれ違い(ディスコミュニケーション)」が生じて、その結果としての「分断」だよね、という描き方になってきていたと思います。

 どちらかというと、課題は「ディスコミュニケーション」。ということで、いよいよ、プリキュアシリーズに位置づけられる作品っぽくなってきました。

 ようするに、ここねが幼少期に、ここねとはつこの両方に「固定観念」として残ってしまったここねの伯母さん(叔母さん?)の「あんまり甘やかしてると、わがままになっちゃうよ。(中略)パパとママを困らせないように、ほどほどにね」は、すぐに「自分の気持ちを伝えるのは、わがままじゃない、よね」の境地に立てていれば、そこまでこじらせる類の話ではなかった感じなのです。

 伯母さん(叔母さん?)もそんなに悪気があった感じでもないので、特定の悪によるコントロールというより、やはり「ディスコミュニケーション」の連鎖って感じです。実際、「力の偏在」において「力」を「持ってる」側の芙羽家が、お昼はもう食べてるのに「もっともっと」と過剰や拡大を求めるというのはいわゆる新自由主義の文脈的には警戒してよいことなので、「わがまま」を警戒する伯母さん(叔母さん?)の気持ちも分かります。
(つまり、さりげなく、ことははつこと伯母さん(叔母さん?)の「ディスコミュニケーション」にも起因している。)

 しかし、「わがまま」というか「過剰」を警戒する話と、「自分の気持ちを伝える」ことは切り分けて考えてよい事柄で、後者を尊重して「コミュニケーション」をとるということが、芙羽親子はこれまでなかなかできなかった。

 できるようになるまで、ここねにとってのゆい、はつこにとってのあきほ(ゆいのお母さん)の登場を待たねばならなかった。(今話の、はつこがあきほとマリちゃんに相談しているシーンいいですよね……。)

 で、この芙羽家の話は「分断」の話というか、「ディスコミュニケーション」の話だった! というのは、物語の縦軸の話にもかかってくる予感がしております。

 もう、マリちゃん、フェンネル、シナモンの間には、OPのカットからもなんか「ディスコミュニケーション」がある雰囲気が漂ってますし。

 今回、芙羽の親サイドと重なるかたちでゴーダッツ様を描き、あからさまに「ゴーダッツ様とナルシストルー&セクレトルーの間には『ディスコミュニケーション』があったね。そこをちょっと埋めるよ!」的な描写があったので、これ、もうクッキングダムとブンドル団の間にも、何らかの「ディスコミュニケーション」が存在している……とかなんじゃないですかね……。

 最後に話をまた芙羽ここねというキャラクターの話に戻すと、


・「孤立」ではなく、「一人」と「みんな」の両方を体現していく
・「分断」というか、親との間にあった「ディスコミュニケーション」は解消に向かい始める



 という、キャラクターの物語としての大きな部分は今話でかなりやってしまった感もあるので、普通なら今話が秋から冬に毎年放映の個別キャラクターまとめ回とかでもよいくらいなのに、ここねについてはもうちょっと「先」まで描くのかなと、また楽しみになったのでした。

 こういう本人の心のセーフティネット的な土台(親との関係とかの話ね)を確立した上で、芙羽ここねという人物はどういう未来に向かっていくのか? というところまで後半で描いてくれるのでしょうか。ますますプリキュアシリーズめいてきてますが、前半で「過去」の話(今作だと「思い出」)を描いた上で、後半「未来」に向かった話に向かっていく作劇はとても好きなので(『魔法つかいプリキュア!(感想)』とかがかなりこの作劇ですよね。)、ここからのここねさんのストーリーもたいへんに楽しみなのでした。

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『デリシャスパーティプリキュア』第23話時点での考察のまとめ/togetter

→キュアスパイシー



→Blu-ray、Amazonさんの全巻購入セットの特典イラストの情報が出たのです。油布さんの描きおろしなのです。



→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第22話の感想〜「伝説」の復元と尊重と「源流」からも自由に未来を選択していくことは両方あってイイという話へ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第24話の感想〜コメコメを特別視せず対称な関係でいることがやがて過去の呪いが解けていくのに繋がってゆくという話へ
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