相羽です。

 『デリシャスパーティプリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』第26話「ここねのやくそく!ピーマン大王への挑戦」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 いわば「ピーマン分断」が起こりかけて、みんなで知恵を使ってそれぞれがそれぞれでやることをやって、ピーマン(「ごはん」)を媒介にした「共有体験」を創造して、いわば「ピーマン共同体」に昇華するというお話でした。

 このエピソード自体が、けっこう(リアルでの)「ピーマン共有体験」を作ってるのは、技アリの試みだと思いました。製作陣の方々が昨晩の夕食のピーマン料理をSNSにアップしたり、今日はピーマン食べるとツイートしたりしてますからね。視聴者の皆さんも相当数が今日は何かしらピーマンについて考えると思われ。「共有体験の創造」までいく企画って、まだまだ稀有ですよね。

 本当、このままでは「ピーマンが食べられる者」と「ピーマンが食べられない者」とで「分断」状態になるかも!? というシチェーションからはじまるお話で、『デリシャスパーティプリキュア』の中心的なテーマにそったお話なんですよね。

 そこで、「ピーマン派」と「アンチピーマン派」で戦い合うしかない、戦わなければ生き残れない! というゼロ年代作品(いわゆる「バトルロイヤル」ものね)ノリじゃなくて、ここ数話で描いていた「コミュニケーションの大事さ」でもって「分断」を「疎通可能」まで持っていく……というお話でした。

 マリちゃんの、


 「はじめてのものでも食べてみることにしてるの、その方が楽しいから」(ローズマリー)


 は、勇気を出して新しいことに参加して、「共有体験」を作っていくことの前向きな志向性についての言葉ですし。


 ここねの、


 「私自身も、みんなで楽しめるものを増やしたい。みんなで過ごす時間は楽しいから」(芙羽ここね)


 は、「共有体験」に基づく、「共同体」「コミュニティ」での生き方を充実させていきたいという方向ですし。
(もっというと、その「コミュニティ」でより「幸せ」になりたいと思ってるんですよね。)
(ピーマンを共有できることで、生まれる楽しさがあり。リアルの方ならある作品の視聴体験を共有することで生まれる楽しさがあったりする。)

 轟さんの、


 「ピーマンを知ることからはじめてみては?」(轟さん)


 は、ここ最近のお話で題材になってる「コミュニケーション」における大事なことですし。

 一方で、最後のスピリットルーの、


 「わからん。人間はなぜ、苦いものをわざわざ食べるでごわす?」(スピリットルー)


 は、それでもなお、存在と存在が理解し合う道や遠し。少なくとも、プリキュアたちとスピリットルーさんには「共有」できる価値観が薄く、未だ「分断」がある、というのが感じられる台詞だと思います。

 ここねがさらに(ゆいたちの)「ごはん」「共同体」の内側に入っていくお話でしたが、並行して、コメコメのような存在と「コミュニティ」をどう築いていけるのかという本作における「親子」要素もみられる話であり(コメコメは擬似的な「子」ポジションだから)、さらにはスピリットルーさんみたいなそもそも人間じゃないとかの存在とは、どう「共同体」を形成可能なのか? という視点も含まれているお話だったと思います。

 地味に、スピリットルーさんは気になります。余剰としての「ごはん」の概念がないゆえに、ゆいたちとは価値観が「分断」してるスピリットルーさんはどうなるのか。

 この価値観の違いは埋められませんでしたで撃破エンドはちょっと切ないですよね。何か、生物とロボットの間にも、「共有体験」は創造し得るという方向にいってくれるのなら、観てみたいのですが〜。

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『デリシャスパーティプリキュア』第26話時点での考察のまとめ/togetter

→映画主題歌



→Blu-ray、Amazonさんの全巻購入セットの特典イラストの情報が出たのです。油布さんの描きおろしなのです。



→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第25話の感想〜写真に残らない目に見えない無形の優しさの延長線上を生きているということへ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第27話の感想〜らんのハッピーが伝わりコメコメは自分の本来性を受け取り直し、スピリットルーはナルシストルーの呪いでまだ閉じたままというお話
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