相羽です。

 という訳で、公開初日に観てきた『映画デリシャスパーティプリキュア 夢みるお子さまランチ!(公式サイト)』の感想です。

 記事はネタバレで書いておりますので、まだ観てない方はご注意下さい。
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 「笑顔だけじゃなくて。悲しいことも、涙も私たちにわけてよ」(和実ゆい)

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 プリキュアシリーズ的には10周年作品、『ハピネスチャージプリキュア!(感想)』で扱った「プリキュアはしょせん虚構(フィクション)のヒーロー、現実の本当に悲しい出来事には役に立たない」というテーマが再び。

(より細かくは、15周年作品『HUGっと!プリキュア(感想)』でもかなりの程度でこの題材を扱っていますが、今回の映画の内容的には、『ハピネスチャージプリキュア!』の方からかなり連続性を持って繋がっていると感じました。)

 『映画ハピネスチャージプリキュア! 人形の国のバレリーナ』の内容を前提にした方が話が早いので、まだこちらの文章を読んでないという方は、こちらの感想記事を読んで頂くと、ここから先に書いてあることについても理解が深まるかと思います。↓


参考:映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ/感想(ネタバレ注意)


 今回の映画のケットシーさんは、ほぼほぼ『人形の国のバレリーナ』のつむぎさんのポジションです。厳しい現実の中で、そのままではプリキュアでは救ってあげられない人、の代表。

 『ハピネスチャージプリキュア!』時点での結論は、「プリキュアは根本的なところであなたを救ってあげられないけれど(つむぎさんの足を抜本的に治したりはできない)、せめて悲しい気持ちを抱えたあなたといっしょにいるよ」でした。

 それから、8年後の今回の映画。

 過去。幼いゆいは現実の中で傷ついたケットシーさんと、「ごはん(お子さまランチ)」を分け合って、元気になってもらっていました。


 「もう忘れちゃったよ。笑顔の作り方なんて」(ケットシー)


 しかし、そんなケットシーさんでも、幼いゆいといっしょに「ごはん(お子さまランチ)」を食べると……


 「おいしい」(ケットシー)


 「ごはん」で物理的に(炭水化物でとかそういう意味で)エネルギーが出たというのもあるでしょうが、この時、幼いゆいとケットシーさんが二人、「ごはん(お子さまランチ)」を媒介にして最小の「共同体」、「パーティ(あつまり)」を形成できた……というのがケットシーさんがちょっとだけ元気になれた理由です。

 『デリシャスパーティプリキュア』が、色々な意味で「分断」が生じている現在の世界で、「ごはん」を媒介にした共同体、「パーティ(あつまり)」の再構築を目指す物語である……というのは、第1話の感想から書いているとおりです。↓


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第1話の感想〜今日、大ごはん共同体が生まれた(ネタバレ注意)


 厳しい現実の「分断」の中で(この時、ケットシーさんは研究者共同体の仲間割れによる「分断」、そこから派生する世界との「分断」を感じて傷ついていたのだと思う。)、傷ついたケットシーさんに、幼いゆいと束の間の間形成された「繋がり」が優しく染みていく。

 それは、奇しくもその後プリキュアとなるゆい的には、『ハピネスチャージプリキュア!』で愛乃めぐみさんが8年前に示した「(プリキュアは)いっしょにいるよ」という姿勢なわけで。

 別れ際の約束は、


 「また元気がなくなったら。会いにいくから」(和実ゆい)


 しかし、ゆいが会いにいくことはなかった。

 『ハピネスチャージプリキュア!』の一つのキーワードは、「子どもの頃のイノセントな気持ち」。

 現実世界での、『ハピネスチャージプリキュア!』から『デリシャスパーティプリキュア』までの8年間と、劇中で幼いゆいがケットシーさんと会った時から、現在までの時間が(本編のゆいが14歳になっているので、幼いゆいは5、6歳、プリキュアシリーズのメイン視聴者層と同じ)だいたい符合します。

 8年前、『ハピネスチャージプリキュア!』を観ていた子どもたちは、果たしてずっとプリキュアがいっしょにいてくれて、厳しい現実の中で幸せに生きることができているのか?

 リアル『ハピネスチャージプリキュア!』時代の傷ついたつむぎさんに重なるケットシーさんは? 今、再び厳しい現実の中で打ちのめされて、革命を起こそうとしていました。

 子どもの頃の純粋な気持ち、『ハピネスチャージプリキュア!』が掲げたような「子どもの頃のイノセントな気持ち」こそが大事なもの。その気持ちを持ったまま生きていけないような現実の世界は、世界の方が悪い。だから。大人を消してしまって、子どもだけの純粋な気持ちで成立した世界をつくるのだと。

 大人(とそれに象徴される厳しい現実)を消す……とは、言いますが、ケットシーさんは具体的には「分断」作戦に出ます。

 TVシリーズ本編で、何かと解決しなければならない(というか、対応しなくてはならない)要素として繰り返し描いてきた「分断」要素を、こういう風に繋げてきたのは上手いと思いました。

 具体的には、「大人」と「子ども」を「分断」する作戦です。

 まず、ケットシーさん自体が、本体の大人の人間の姿を隠して、彼にとっての「(純粋な)子ども」の象徴である、幼いゆいに描いてもらったネコの姿をしています。彼自体が、「大人」から「分断」された「子ども」の姿でふるまって、革命を起こそうとしている。

 続いて、作中で「大人」代表のマリちゃんを排除、ぬいぐるみ(「子ども」が好むものの象徴)にしてしまいます。マリちゃんというか、この世界の「大人」をどんどん排除していってしまいます。これは、「大人的なるもの(的なる世界)」との「分断」です。

 そして、はやくゆいのような「大人」に、ヒーローになりたいというコメコメに対して、「ずっとお子さまランチを食べていてよい」と、制限をかけようとします。この制限は、これまでTVシリーズ本編の感想でずっと書いてきた「固定観念」要素ですし、コメコメ、というか子ども世代(コメコメ世代)と大人世代(ゆい世代)の「分断」を誘発するような要素として、この時点では機能しています。

 そんな、ケットシーがしかけてくる革命を志向した「分断」の嵐に対して、今回の映画ではプリキュアたちが主に3つの要素で乗り越えていきます。というか、ケットシーの命題自体を包摂して、前人未踏の未来の風景を描き出すところまで、駆け抜けていきます。

 昇華の要素、一つ目はやはり「共同体」、「パーティ(あつまり)」です。作品タイトルですからね。

 現行世界の「大人」は滅ぼすしかない、純粋な気持ちを持った子どもたちだけの世界へと革命だ! と、(「大人」や「現実で傷ついた人」も含め得る)より大きな「共同体」の可能性を閉ざして暴走するケットシーロボ(仮称)が猛威を振るう中、ゆいはあくまで、「大人」の世界で再び傷つき切ってしまったケットシーさんも含めて、もっと「先」に描けるかもしれない「共同体」のカタチ、「パーティ(あつまり)」のカタチの可能性を諦めない、という態度をとります。

 ケットシーロボの猛攻の中、変身しないゆいとコメコメに対して、「二人とも、何かあるんでしょ?」と「わかってる」声をかけるここねとらんのシーンが超好き。ゆいとここねとらんとあまねは、本当の「パーティ(あつまり)」なのです。この「分断」に満ちた世界における、可能性の四人なのです。

 昇華の要素、二つ目は「本来性」です。

 純粋な気持ちとか、言葉による表現はいくつかバリエーションがありますが、ケットシーさんが革命志向に走ったり暴走したりしてるのは、(厳しい現実を象徴する「大人」の研究者たちに)ありのままのケットシーさん、「本来性」の状態のケットシーさんを受け入れてもらえなかったからです。

 この点に関しては、「お子さまランチ」を本当は食べたいのに食べないと言っちゃうコメコメ……の箇所の昇華で、ステップアップを描いています。

 第27話で、コメコメの「本来性」である耳としっぽを、コメコメは否定的にとらえてしまうのだけど、他者との繋がりと承認の中で(この回で大きな役割を果たすのはらん)、自分の「本来性」をありのままに受け取れるようになる……という話を描いたのと同じで。


参考: 『デリシャスパーティプリキュア』第27話の感想〜らんのハッピーが伝わりコメコメは自分の本来性を受け取り直し、スピリットルーはナルシストルーの呪いでまだ閉じたままというお話


 「本来性」的には「お子さまランチ」食べたいんだけど、無理して「本来性」から離れて食べないと言っていたコメコメが、他ならぬケットシーさんの言葉で、「お子さまランチを食べてもヒーローにはなれる!」と開眼する過程が描かれるのです。

 「自分が信じる大人=ヒーロー」になるには、何か(たとえば「お子さまランチ」)を諦めなくてはならない……というのは、「条件つき」の世界観で、「固定観念」です。TVシリーズ初期では、ここねが「何か条件を満たさないとゆいとは友だちになれない(プリキュアとして並び立てない)」という「呪い」に囚われていたりしました。


参考:『デリシャスパーティプリキュア』第5話の感想〜生徒会長(ジェントルー?)が促す「固定観念」から芙羽ここねが一歩自由になっていく様子が描かれる


 でも、「友だち」にも「ヒーロー」にも、「条件つき」でなるものじゃない。

 この時のケットシーさんには、コメコメを誘導してやろうという打算もあったのかもしれないけれど、結果としてコメコメの「固定観念」、「条件つき」の世界観を壊してくれるきっかけをつくってくれました。その意味で、今度は自分がゆいの助けになると言っていた幼少時の約束は、ケットシーさんは間接的に果たせていたのです。だからこそ、ケットシーさんも打倒するというよりは、彼のテーゼをも包摂して、より「大きな」世界を描き出していくという段階まで入っていく映画となっているわけですが。

 昇華の要素、三つ目(いちおうこれで最後)は、「固定観念」を手放して、「本来性」のままの「パーティ(あつまり)」と共にいられる時、「源流」、「過去」からの「呪い」は「前向きな受け継いでいる力」に変わる、です。


 「でも本当に、世界はケットシーのいうとおりなのかな?」(和実ゆい)


 ここから、「源流」、「過去」から続いている、つまりは「大人」がつくった現行世界は汚いものだと受け取っているケットシーに対して、「源流」、「過去」、「大人」、「この世界」といったもの、暴走するケットシーには「呪い」のように見えているものが、「前向きな受け継いでいる力」に変わっていくターンが描かれます。

 ここからが、『ハピネスチャージプリキュア!』の時、「プリキュアは根本的なところであなたを救ってあげられないけれど(つむぎさんの足を抜本的に治したりはできない)、せめて悲しい気持ちを抱えたあなたといっしょにいるよ」としか言えなかった「プリキュア」の「先」。

 「現実で傷ついて、虚構(フィクション)のプリキュアでは立ち直れない」くらいの人(象徴はつむぎさんやケットシーさんね)すら「共同体」に、「パーティ(あつまり)」にいっしょにいられるような「何か」が必要なわけですが。

 さすがの僕も、そんなものが、今のこの世界にそんなにも信じられるもの。「確かなもの」なんてあるのか?

 と思ったところで、

 その答えは、


 お米(ごはん)だ!


 と言い切ったところで笑いました。

 知ってた。第1話からずっとそう言ってる作品でした。

 つむぎさんやケットシーさんのような、「厳しい現実の中で傷ついた人」すらいっしょにいられるような、新型・大・「共同体」の中心になる、力強きもの。

 お米です。

 ここで、ケットシーロボの動力だったスペシャルデリシャストーンの「(ざっくりとは)想いが実現化する」力が、コメコメ、パムパム、メンメンらに。

 彼・彼女たちが「信じた大人」、プリキュアの姿に。

 ケットシーが自分自身を「分断」して「大人」の姿を隠して「子ども」のケットシーの姿になっていたのと対照的に、「大人」から「子ども」に「前向きに受け継ぐ」彼・彼女たちは、プリキュアの姿もそれぞれのパートナーに似ていながら、それぞれのフレーバー(味)を加えたといった趣です。

(余談ですが、デリシャストーン関係の「源流」の力、特に「白」の力に関しては僕の考察で合ってる可能性が高まった気が。

 参考:『デリシャスパーティプリキュア』第13話の感想〜別れた「白」と「黒」が引き合い始める初動のお話

 ざっくりとは、『初代』の白、雪城ほのかさんの「心の宇宙の自由」の力ですよ。)

 信じられる「大人」、信じられる「世界」、信じられる「源流(過去)」、わかってる。お米だよね?

 「源流(過去)」から、強い、確かな何かがやってくる。

 お祖母ちゃんの名前は、およねさん。(お米)

 お母さんの名前は、あきほさん。(秋穂)

 そして、この時代に生を受けた、ゆい。(「結」=おむすび)

 その擬似子どものポジションの、コメコメ。(米)

 四代にわたる。お米、パワーだーッッ!

 ここでは、表層的には四代ですが。ここは、日本です。お米のルーツはとりあえず弥生時代くらいまで遡れるので、二千年分くらいのパワーはありそうです。

 これが、私たちの力だ!

 お米を中心に、「共同体」を、「あつまり(パーティ)」をつくってきた国だ!

 厳しい現実の中で、世界情勢が不安定化すると、小麦が輸入できなくなって、困る?

 日本には、米粉があるでしょ。

 現時点での実数値はともかく、ポテンシャル的にはお米は自給できるでしょ。

 お米「共同体」は、傷ついたあなたとたとえ一時離れたとしても、必ずまた居場所になれる。


 「また、元気がなくなったら、会いにいくから」(和実ゆい)


 元気がなくなったあなたに会いにきてくれる、「パーティ(あつまり)」的なるもの、お米で、プリキュアだー!

 稲穂モチーフの(というかちょっと邪馬台国(お米の国だから)の卑弥呼モチーフなのかなと最近思い始めてるのですが)、キュアプレシャスと、コメコメが並び立ちます。

 キュアプレシャスは、2000キロカロリー。

 コメコメは、2000キロカロリー。

 「大人(ゆい)」と「子ども(コメコメ)」が、「対称」な関係で並び立ち、

 放つ、二人合わせて4000キロカロリーパンチ!

 『人形の国のバレリーナ』の時の、囚われたあなた(つむぎさん)に手を伸ばす感じというか、なんか閉じこもって「分断」状態にあるケットシーさんに対して、その、私たちとあなたを「分断」している「壁」を、お米パワーでぶち壊すというニュアンスです。

 まとったフォームの名は、「お子さまランチドレス」。

 『ハピネスチャージプリキュア!』の「イノセントフォーム」の名称を継承しながら(イノセント=子どもの頃の純粋な気持ち)、ちゃんと「パーティ(あつまり)」のニュアンスが入ってる(「お子さまランチ」あるところに、「ごはん」あるところに人は集うから)! すごい!

 かくして、新型・大・「共同体」、「お米(ごはん)共同体」現れる。

 「現実で傷ついた人」「罪を犯した人」なんかも、この「共同体」には合流可能です。ケットシーさんも、「やり直し」パートに入りますが(このプロセスを描く暗示で、ケットシーさんの精神世界を反映した子ども部屋に、ウサピョンっぽいのがいたのかな?

参考:映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?/感想)、

 なんだか、そういう状態の人も、この「お米(ごはん)共同体」には何らかのカタチで参加してそうです。それこそ、リモート参加とかさ。『ハピネスチャージプリキュア!』の頃にはなかったでしょ。世界は、前進している。

 大「お米(ごはん)共同体」が、今日出現しました。

 ほぼエンディングでは、ちょっと「固定観念」入って「お子さまランチ」食べないとか言ってた拓海が、「お子さまランチ」めちゃ食べて笑顔になってるの、ゆいだけが知っているという風景。

(ここ、拓ゆい派のみなさん、死にましたよね? 私は死にました。)

 恋愛は、「家族」「共同体」の初動。

 おそらく、拓海にも(この先のTVシリーズの物語)で、「厳しい現実」が待っているのだけれど。

 大「お米(ごはん)共同体」は、そんな時の彼にも元気と居場所をくれそうです。

 『ハピネスチャージプリキュア!』の題材を扱いつつ、一歩進めている素晴らしい映画だと思いました。我々の「源流(過去)」から「お米」というキーワードがやってきて、この「分断」世界に謎の「パーティ(あつまり)」を出現させてしまうという展開がけっこうバカっぽくて(え)、でもそうだよね、と笑顔になれて、かなり僕好みの映画でした。

 願わくば、僕も歴史的な「お米」「共同体」の末裔として、新型・大「お米(ごはん)共同体」の一員として、自分の「本来性」とか全うしつつも、世の元気ない人に「パーティ(あつまり)」を提供していけるような「信じた大人」になりたいものだと思ったりした、よい映画体験だったのでした。

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『デリシャスパーティプリキュア』第28話時点での考察のまとめ/togetter

→『映画デリシャスパーティプリキュア 夢みるお子さまランチ!』のBlu-ray



→コメコメ(キュアフレンズぬいぐるみ)



以前のプリキュアの映画の感想

→前回:『デリシャスパーティプリキュア』第28話の感想〜コメコメを中心に本来性の共同体が発現するも呪いが解けないナルシストルーにはまだ届かないというお話へ
→次回:『デリシャスパーティプリキュア』第31話の感想〜生まれた場所との再契約という拓海の物語に繋がりそうな前段階のお話へ
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