相羽です。

 今回は、『ひろがるスカイ!プリキュア(公式サイト@東映公式サイト@朝日放送)』にて。

 プリキュアシリーズ20周年で何で男子プリキュアのキュアウィング/夕凪ツバサ君を入れたのか。

 入れたことで、プリキュアシリーズに新たにどういうグラフィックが「可能性として」見えるようになりそうなのか。

 この点に関しての、僕の現時点での見解です。

 以下、『ひろプリ』本編の全編にわたるネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 結論から言うと、男子プリキュアのキュアウィング/夕凪ツバサ君が入ったことで。

 入ったことでというか、『ひろプリ』本編で描かれている彼の物語を追ってみて、プリキュアシリーズでこれまで扱ってきた(これからも扱っていくであろう)「自由」の概念が拡張される可能性がある、というものです。

 まず、物語も後半に入ってきた最近の『ひろプリ』を観ていると、夕凪ツバサ君というキャラクターの物語は、遊覧鳥から落ちた時に飛んでみせたお父さんに助けられた原初体験から、当初「飛ぶ」という方向(飛べないプニバード族からは離れる方向)を目指すのですが、どうも終盤では何らかのかたちで、「飛べないプニバード族という自分の本来性」との和解に行き着く……というものでありそうだということです。


参考:『ひろがるスカイ!プリキュア』第36話の感想〜どこか自分自身への無価値感がきっかけだったキャラクターたちが少しずつ自由になって他者へと開かれていく


 ここで、初の男子プリキュアではあるけど、夕凪ツバサ君はこれまでコテコテのステレオタイプ的な「男子」の表現は避けるような感じで描かれている、という前提を共有しておきます。

 バトルパートでは前衛でテストステロン(男性ホルモン)を爆発させながら攻撃を連打するタイプではなく遊撃&サポートタイプですし。

 日常パートでは女の子たちと同居してますが、ついつい彼女たちに性的な目を向けかけて赤面する……みたいな他の作品だったらありそうな、仲間である女の子のプリキュアたちを異性的な目で見るみたいな表現は、これまでは避けられていたように思います。

 ですが、これが実は(リアルの)世の中への配慮的なものもおそらくはありつつも、最終的には夕凪ツバサ君という個別キャラクターの物語に回収される要素なのかもしれないと最近思うようになってきました。

 ツバサ君は二つの本来性を持っているのですが、幼少期に落下して父に助けられた経験から、自分自身の価値を証明するために「飛ぶ」の追求に邁進するあまり、本来性を後回しにしてきたというキャラクターです(「ヒーロー」に邁進するあまり、いくつかの大事なことから離れるかたちで生きてきたソラさんと対照構造になっているのは、これまでこのブログの感想で何度も書いてきたとおりです)。

 一つ目の本来性は、本来彼は「飛べないプニバード族」であるというものですが、こっちは、上述のように、どうも「飛べないプニバード族」なりの自分にも、というかあまねく存在するものに、ありのままで大事だという価値がある、という方向への何らかの「和解」が描かれそうです(第36話のあげはさんへの「そのまんまのあげはさんでいればいい」の言葉がツバサ君自身にかかるように描かれている)。

 そして、二つ目の本来性が「男子プリキュア」の話と関係するのですが、彼は男子です。特に男子であることを抑制するような具体的な過去のエピソードがあったとかは描かれていませんが、「飛ぶ」に邁進し過ぎて、異性として女子に目を向けるようなことは後回しにしてきたような人物であるのは推察できます。(この、ちょっと異性として扱ってくれる(「少年」呼び)あげはさんからツバサ君への認識と、異性がどうとか置き去りにして生きてきたツバサ君からあげはさんへの認識がズレてるのが、物語の途上では、ツバサ君とあげはさんの関係の萌える(死語)ところなのですが)

 なので、この二つの本来性との和解が同期するというのが、物語の展開としてはとても綺麗だと思うのです。

「飛べないプニバード族」である自分との和解と、「男子」である自分との和解(というか改めて意識する)。

 よって、物語の後半〜終盤で上記の二つの和解が実現したタイミングで、ツバサ君は、


・テストステロン的な(いわゆる我々がイメージしがちな)男子的な攻撃をバトルパートで展開する。
・聖あげはさんを日常パートで異性として意識する。



 と、予想します。

 外れたら、笑ってください(笑)。


・飛べないプニバード族の自分だってイイじゃん


 と、


・男子が男子のままプリキュアやったってイイじゃん


 が同期するという展開になったら、綺麗だし熱いと思うのです。

 実際、例年その年のTVシリーズのテーマのまとめにもなってる秋映画、今年は『映画プリキュアオールスターズF』ですが、ツバサ君はいわゆる(我々がある種のステレオタイプかもしれないけれど、物語的に想像してしまうような)「男らしい」行動が描かれています。

 プリキュアシリーズって、「初代」の雪城ほのかさんの「わたし達の心の中の宇宙は誰からも自由だわ」の語りから始まって、存在としての「自由」という土台に制約を受けていたキャラクターが、解放されてそれまでよりも少し「自由」になるまでを描くことが多いと思うのです。

(その意味で、『ひろプリ』で存在としての「自由」に一番制約を受けているのはエルちゃんなので、最終章は彼女の「自由」のための戦いになるのかなと予想していますが。その話はまたどこかで機会があったら。エルちゃんとしてみんなと共に過ごした時間がマジェスティとしての遠大な背景から制約を受けそうというのは、「初代」の九条ひかりさんのクイーンか? ひかりか? というアイデンティティを扱った物語のオマージュにもなりますしね……)

 あげはさんはあげはさんで、最近のエピソードまで観るとけっこう心の奥で傷ついてもいる人で、自立したカッコいい大人の女性という普段見せている側面は、防衛機制で身につけた側面でもあり、だからこそ最新の第36話で彼女が涙を見せる(ある意味「弱さ」の表現)ところが、彼女の本来性の一部でもある……という描き方になっていると思います。

 ゆえに、ツバサ君視点だとエルちゃんのナイトになるというのは、まだ物語の途上の中間段階(飛べないプニバード族かつ男子という自身の本来性とまだ和解できてないので、防衛機制的に自分のアイデンティティを作り上げている)で、最終的には上述の自分自身の本来性との和解を果たした段階で、ツバサ君はあげはさんのナイトになるのかなと思っています。

 このような『ひろプリ』で描かれている男子プリキュア、夕凪ツバサ君の物語を追ってみた上で、この文脈をプリキュアシリーズ20周年に接続してみると、どんなグラフィック(風景)が見えてくる可能性があるのか?

「女の子だって暴れたい」というかたちで、既存の枠組み(女の子はおしとやかにしなきゃ的なもの)の抑圧から「自由」になっていくという題材を扱うことで始まり、進展してきたプリキュアシリーズが、とはいえ、既存の枠組みの方とも丁寧にコミュニケーションしてみたら、そっちも「自由」として尊重できそうということ。

 本来的には、多様で自由な世界をありのままに捉えるなら、世界のすべての学校を共学にするのではなく、男子校も女子校もあってもいいんだよね的な話の方向で。

 この世界に、(従来のイメージとしての)男子的な男子がいてもイイし。大人になっても守られたいある種の弱さを抱えた女性もいてイイし。

 より拡張されたコントラストの中で、「自由」を土台として自分自身を全うしていくこと……が描いていけるかもしれない可能性を感じたりはするのです。

 人間というのは多層的な存在です(『ひろプリ』ではたとえば、一つの存在の中にもある多層性を、物語をとおして変化するカバトンさんやバッタモンダーさんさえもとおして、おそらく肯定的なニュアンスで描いています)。

 その多層性を、より受容するということ。

 これまでのプリキュアシリーズは、抑圧からの解放=自由の構図が主だったのが。

 一見抑圧側に見えるかもしれないけれど、よくよく誠実かつ丁寧にその概念と向き合ってみると、その抑圧側的に見えるフレーバーにも「自由」は見出し得る。これが『ひろプリ』(ちなみに、その意味でソラさんにある種のフォーマットの中にとどまるように「呪い」をかけてしまっていたシャララ隊長も、彼女は彼女で「自由」を土台とした大事な個人なんだと最近は思うようになってきました。僕の感覚だと、だいぶ孤高で制約的な方向の在り方だとは感じますが……)。

 より正確には、より前に出してそのことを表現した。でしょうか。

 一見抑圧側に見えるかもしれないけれど、よくよく誠実にその概念と向き合ってみると、その抑圧側的に見えるフレーバーにも「自由」は見出し得る。は、15周年記念作品の『HUGっと!プリキュア(感想)』でも愛崎正人氏や愛崎えみるさん、若宮アンリ君のストーリーで扱っていたので(やや分かりづらいかもなのですが、一見えみるに制約をかけているようにみえる正人の方も、「自由」を土台にしたかけがえのない存在である……というのが『HUGっと!プリキュア』のお話です)。


参考:HUGっと!プリキュア第19話がジェンダー論というよりメタフィクションである話(ネタバレ注意)


 ただ、『HUGっと!プリキュア』ではサブテーマくらいの位置付けだったのが、今回は「プリキュアとは何か?」のメインテーマに絡むくらいのポジションまで持ってきた、という印象です(まだメインテーマそのものとは言わない)。

『ひろプリ』は20周年作品ということもあり、特に一つのテーマ的な到達点にもなっている秋映画『映画プリキュアオールスターズF』では、「プリキュアとは何か?」がテーマになっていたのですが。

 各論は色々とあるかもとして。

 『初代(感想)』〜『MaxHert(感想)』最終回のキュアホワイト/雪城ほのかさんの「わたし達の心の中の宇宙は誰からも自由だわ」の言葉に回帰する感じがあって。

 自由を土台にして「自分自身の本来性を全うする」こと。自分自身が自由であるからこそ、同じくらい他者の自由と他者の本来性を尊重できるということ。そうした自分と他者が、助け合えること(象徴として描かれる「手繋ぎ」)。

 このあたりは「プリキュア」の概念に含まれることに、そんなに異論がある方はいないのではないかと思います。

 暴れたっていい女の子がいて(始まり)。

 色んな女の子がいて(20年続いたヒストリー)。

 男子的な男子もいて(ツバサ君の「先」)。

 守られたい女子もいて(あげはさんの「先」)。

 世界はコントラストを形成しながら、より、彩りを深めていく。

 上記より、男子プリキュア登場で見せてくれた新たなグラフィックの一つは、プリキュアシリーズでこれまで扱ってきた(これからも扱っていくであろう)「自由」の概念が、一見抑圧側に見えるかもしれないけれど、よくよく誠実かつ丁寧にその概念と向き合ってみると、その抑圧側的に見えるフレーバーにも「自由」は見出し得る…という表現の提出をトリガーとして、様々なコントラストをより意識させ(必然的に視聴者にもクリエイターにも対話や内省を促す)、今後より拡張され、進展し、彩を深めていく可能性という風景である、というのを今回の記事時点での見解としたいと思います。

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→前回:『ひろがるスカイ!プリキュア』第36話の感想〜どこか自分自身への無価値感がきっかけだったキャラクターたちが少しずつ自由になって他者へと開かれていくへ
→次回:『ひろがるスカイ!プリキュア』の5話で「二人」に24話で「家族」になった後の今後の「プリキュア」たちの物語の展望
→次回:「ましろさんは、今のましろさんのままでイイんです」〜無条件の自分をゆるせるかというソラ・ハレワタールとカイゼリン・アンダーグのお話
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