相羽です。
山口亮太さんによる『小説ドキドキ!プリキュア』の感想です。
ネタバレ注意です。
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一番好きなシリーズですが、作品のテーマでもある「愛」に関して。10年くらいを経て僕なりの解像度も上がってきて思うのは、「愛とは自由」という作品でもあるということ。そこに、『初代』から続く光と闇の相補関係といった、陰陽思想のような、他者愛と自己中という一見相反する命題の「両義(同時に成立)」といった題材を扱っている作品だと思います。
相田マナは他者愛も極大だけど自己愛(自己中)も極大という深みがある主人公なのですが、「愛」が「自由」っていうことは、片方の側面だけじゃなくて、両方、その人の魂の泉から湧き出てくるその人の心の流れのありのままを見守る、というその人へ向ける心の志向性です。それが、愛。
今回、六花がそういう感じで、マナが世界を見て回りに行ってしまう(極大の自己中的な事項でもありますよね)ところで、葛藤はあったけれど、ありすの言葉もあって、六花の思うようにマナの方を変えようとせず、結局マナのそういう側面も大事にした(マナを「自由」にした)ということ。これは愛です。
一方ジョナサンも、結局亜久里とレジーナにアン王女の因果を継承することを望まず、「自由」にしています。これも愛です(ただ、自由であるからこそ、亜久里の方のジョナサンへの気持ちは、ちょっとここからラブになる可能性もあるのか? というのは微細に感じたりしました)。「自由」であるからこそ、存在が愛であり、「両義」の陰陽キュア、キュアジョーカーがクライマックスで登場してくるのは、燃えるものがありました。
そして、「自由」にするということは、その存在の陰陽ありのままを「信じる」ということ。序盤の幼少期のいじめエピソードのキーが「信じる」なわけですが、最終的に人類愛みたいなスケールの話になっていって、マナは世界を「信じた」のですよ(一方、倉田はやはり世界を信じておらず、そっちを「変えよう」としてしまっている)。
世界を自分が制作する的に変えようとするのではなく、世界の陰陽含めた自然の生成力そのものを信じた。それが世界が「自由」であるということであり、「愛」であるということ。 哲学の話とかするとハイデガーの「制作」と「生成」を対照させる作品はたくさんあるのですが、地球(世界)の「生成」を信じたら、プリキュアが5000人「生成」されたという結末は、バカだな〜(褒めてます!)、やっぱり『ドキドキ!プリキュア』大好きだな〜となりました。 マナの「自由」度が上がって終わっているので、マナ自身の軽さも上がり、世界の軽さも上がり、読者の身軽さも上がるような読後感でありました。
ここからさらに続いていくような前向きな未来への予感も感じられるラストで、この作品が好きでよかったな〜と思える内容でありました。山口亮太さんをはじめ、製作陣の方々にたくさんの感謝を!
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